Relay-BP:qLDPCエラー訂正符号の世界最速で最も正確なデコーダー

量子コンピューター

Relay-BP の詳細についてはarXivの論文か、Relay-BP GitHubリポジトリーのコードをご参照ください。

最近まで、量子コンピューティングの分野では、大規模でフォールト・トレラントな量子コンピューターのエラーをリアルタイムで修正できる強力なデコーダーを見つけるのは困難な課題でした。電気工学から多体物理学まで、複数の分野にわたる IBMの研究者たちがこの課題に取り組み、頭を悩ませはじめたのは、1年余り前のことでした。

2025年7月、彼らは新しいアルゴリズムであるRelay-BPの詳細を説明したプレプリントを公開しました。これはqLDPC符号(量子LDPC符号)のどんな最先端デコーダーよりも桁違いに優れた論理エラー率を達成します。さらに、柔軟性とコンパクトさを兼ね備えているため、FPGAでの量子メモリ実験でデコードに用いるのに最適です。FPGAは製造後に再構成できる計算デバイスです。研究者らは論文の中で、Relay-BPが柔軟性、コンパクトさ、速度、精度の点で、これまでで最もパフォーマンスの高いqLDPC符号のリアルタイム・デコーダーであることを示しています。その登場は、フォールト・トレラント量子コンピューティングの実現へのさらなる一歩です。

エラー訂正デコーダーは、量子計算中のエラーを検出するように設計されています。これは、量子コンピューターに接続された古典ハードウェアに実装されるアルゴリズムであり、量子コンピューターで情報を保存および処理し、エラーを見つけて修正するために連携して動作するコンポーネント群の一部です。デコーダーは、論理回路全体のすべての物理測定値を使用して、エラーがどう起こったか最も可能性の高い起こり方を特定します。デコーダーは、他のすべてのコンポーネントとともに、フォールト・トレラントな量子コンピューティングを実現するために必要です。

優れたデコーダーの探求

量子エラー訂正 (QEC) とは、量子データを保存、送信、操作する際に量子データを保護する方法を指します。量子ビットは特に環境に敏感であるため、量子状態を維持したいのであれば、量子ビットを保護する方法を工夫する必要があります。論理エラー率が十分に低い(つまり、量子ビットへの外乱が最小限に抑えられる)量子コンピューターを製造できれば、フォールト・トレラントな量子コンピューティングを実現できます。QECはこのミッションの重要な部分です。

実際にはQEC は、信頼性の低い物理量子ビットをいくつかまとめて、信頼性の高い論理量子ビットを作るコーディングを使用します。量子物理学の法則により、論理量子ビットからエラー情報を直接抽出すると量子情報が破壊されるため、信頼性の低い量子ビットの特性を測定して、起こっているエラーの一種の「シグネチャー」を形成します。
シンドロームと呼ばれるこれらの測定値は、エラーの原因についての手がかりを与える情報です。次に、シンドローム・データを解読し、問題を修正する方法を決定するのはデコーダーの役割です。

フォールト・トレラント量子コンピューターには、柔軟で正確、高速、コンパクトなデコーダーが必要です。つまり、量子回路全体を正確に解読できなければなりませんし、未処理のシンドロームが貯まっていってしまわないようにエラーを高速で解読できなければならず、また少ない計算リソースのみで動作する必要があります。

デコーダーは古典計算にも存在しますが、確率伝播法 (BP、belief propagation) などの古典アルゴリズムは、量子デコーダーがどのように機能するかについての参考になります。ではBPはどのように機能するのでしょうか?BPは、複数の計算ユニット間で情報をやりとりするため、一種のメッセージ伝達アルゴリズムとして知られています。各ユニットは個々の人のように行動し、グループで複数の人が互いに会話しているように振る舞います。エラー訂正デコードは、会話によって犯人探しをするかのように動作します。量子エラー訂正の場合で言うとそこでの犯罪は計算エラーであって、その原因は量子ビットの障害や量子ビット自体を測定する行為によるものです。話し合いの参加者の一人一人が、誰が犯人であるかについて独自の信念を持っていて、お互いに話し合い知識を交換することで、結論を導き出し、犯人を特定することができます。

ただし、標準的なBPだと多くの場合、 qLDPC符号では解に収束するのが困難で、二つの解の間で振動することもあれば、不正確または不確実な解に収束してしまうこともあります。利用可能な中で最も正確なデコーダーを求める研究者は、Relay-BPが登場するまでは通常、BP+OSDを選択していました。これは順序統計量複合法(OSD、ordered statistics decoding)という別のアルゴリズムと連携して機能する確率伝播法(BP)です。しかし、OSDは計算コストの高い数学的計算に依存しているため、正確であっても、効率的かつコスト効率の良い方法でリアルタイムで動作するように実装することは困難でした。

こういった点で、Relay-BPは、デコーダーのパフォーマンスを判断するために使用する4つの主要な指標(柔軟性、コンパクトさ、速度、精度)において、他のすべてのqLDPCデコーダーよりも優れています。柔軟性は、デコーダーがさまざまな種類の qLDPC符号でどの程度うまく機能するかを評価します。コンパクトさは、CPU または FPGA の実装で使用されるリソースを決定します。スピードは、未処理エラー・シンドロームの滞留を回避する能力を評価します。精度は、その論理エラー率を測定します。

Relay-BPはBPを主な基盤としています。BP自体は非常に高速ですが、Relay-BPほど正確ではありません。BP+OSDはBPよりはるかに正確ですが、コンパクトさとスピードは劣ります。IBMの研究者らは論文の中で、Relay-BPはBP+OSDと比較して精度が約10倍向上していながら、速度はBPと同等か、場合によっては向上していることを示しています。Relay-BPは、研究チームが調査したさまざまな主要代替手法と比較した際にも同様のパフォーマンス向上を示しています。

つまり、私たちの知る限り、 Relay-BPは、四つの要件をすべて満たす唯一のリアルタイムqLDPCデコーダーです。柔軟性とコンパクトさだけでなく、既知のすべての代替手法よりも高速かつ正確です。

舞台裏

この研究の筆頭著者であるTristan Müllerは、BPデコードに対するある新しいアルゴリズム・アプローチを試してみる機会を得ました。それまで研究チームは、既存のエラー訂正デコーディング・アルゴリズムを複数評価していましたが、そのどれもが期待されるパフォーマンス特性をうまく満たしていなかったので、Müllerはこのアプローチに目を向けたのです。

元々 Müllerは量子コンピューターのファームウェア開発者としてIBMでキャリアを始めたのですが、エラー訂正ハードウェアのファームウェア・プロジェクトに取り組んでから、最終的にエラー訂正に興味を持つようになりました。この分野で働く機会が与えられたとき、彼は進んでその道に進み、エラー訂正の専門家チームとともに、高速・効率的・正確・コンパクトなQECデコーダーという夢の実現に参画しました。

「私は基礎研究をしていますが、その研究が隣の部屋の同僚たちによって製品になるのを見ることができています。これは、あまり体験できない一種の贅沢です。まるで作曲家がその作曲した交響曲がオーケストラによって初めて演奏されるのを聴くようなものです」とMüllerは言っています。

この新しいQECデコード・アルゴリズムの開発を開始して間もなくして、Müllerは競争力の高いバージョンを考案することができました。彼は、OSDではなくBPに注意を向けることで、このアイディアに到達しました。

Müllerはまず、この分野での既存研究で行われていたBPへの修正案を複数検討し、計算量が少なくてインパクトがあると思われるものに焦点を当てました。「私がやったことは基本的には、買い物で掘り出し物を探すようなやり方でした」と彼は言っています。「私は安い材料をひとつひとつ取り上げては、それらを組み合わせようとしました。」

そのようにして、qLDPC符号用としては既存のデコーディング・アルゴリズムよりも高速で正確になることもありながら、安価で実装が容易なRelay-BPが誕生しました。そこから、チームは新しいアルゴリズムを改良するためにたゆまぬ努力を加え、さまざまなシナリオでの実用的なアプリケーションを探しました。彼らの努力は、Müllerのアイデアの最終的な実現に不可欠でした。

得られた解

Relay-BPが既存手法よりも優れているのは、具体的にどういう点でしょうか?重要な要素の一つは、その名前にある「リレー」です。アルゴリズムのパラメーターは、仮定(ビリーフ)を更新するのに、メッセージ伝達ツリーにおける以前のエラー情報を使用することができます。最終的に、これによって、アルゴリズムは、より高速かつ正確な割合で、最終的なエラー仮定に収束することができて、エラー訂正ができます。

標準的なBPは通常、パラメーターを使用しないため、すべての計算ユニットが同じ方法で情報を記憶して伝達します。そこでは大局的な統一されたルールを使用して、各メッセージに割り当てる重みを決定します。この処理は、噂が本当かどうかを見極めようとするようなもので、そのために複数の情報源から情報を収集するのですが、その際にすべての情報源を等しく信頼できるものとして扱います。

Relay-BPの場合は、メッセージ伝達アルゴリズムに制御機能を効果的に追加してあって、それが各ノードのメモリ強度、すなわち記憶する、または忘れる量を制御して、このことで隣接ノードから受信したメッセージに基づいて仮定を更新する際にどう更新するかを制御します。Relay-BPの「memory transience(記憶のもろさ)」と「disorder(無秩序性)」は、各ノードが以前に受け取ったメッセージに対する「forgetfulness(忘却)」のばらつきだけでなく、各ソースの信頼性にばらつきをもたらすとも言うことができます。このことはRelay-BPを、qLDPCエラー訂正符号用のすべての既存デコーダーよりも高速かつ正確にする上で大きな役割を果たしています。

メモリ強度の調整は、最適化の分野では新しいことではなく、ある種のアルゴリズムにおいて解への収束に効果があることが知られています。ただし、すべてのメモリ強度が同じ場合、つまり「対称」の場合、アルゴリズムは「トラッピング集合」と呼ばれるものにスタックしてしまう可能性があります。Müllerは、この問題に対処するために、無秩序な記憶強度、言い換えれば「非対称」の記憶強度のアイデアを導入しました。メモリ強度が無秩序になると、各ノードで異なる局所的制約が発生するため、一つのエラー解に収束しやすくなります。記憶強度を制御する機能、ということはすなわちその無秩序性を制御する機能になりますが、これはRelay-BPの有効性にとって確実に重要な役割を果たしました。

原文ブログにはRelay-BP arXiv論文の図1を再掲しています。(a) : BPでは、各エラーが発生したという仮定は、イタレーションごとに更新されます。ただし、一部の仮定は収束(緑)せずに振動(赤、青)することがあります。(b):記憶項は振動を弱めることができますが、対称的なトラッピング集合は不確実な仮定(赤、青)への収束につながる可能性があります。(c): 無秩序化された記憶強度は対称性を破り、正解を形成する決定的な仮定につながる可能性があります (つまり、シンドロームはキャンセルされます)。(d): Relay-BPは、異なる DMem-BP実行をチェーン化し、収束をさらに加速し、再起動せずに複数の有効な解を提供できます。実線は提案されたエラーの重みを示し、破線は提案された修正後のシンドロームの重みを示します。

さらに、この非対称性の中で、Müllerは記憶強度が負になることがあることを発見しました。そして、結果的にこれは非常に役に立つことになりました。アルゴリズムが最良の解を見つけたと信じているのに、その仮定が間違っている場合、負の記憶強度によって、アルゴリズムはその解を忘れて代わりに別の解を探すことができます。これによって最終的に真の最良の解にたどり着く可能性が高まります。負の記憶強度によってもたらされるこの「忘却」の力は、解がまったく見つからない場合にも役立ちます。負の記憶強度の発見はまったくの偶然であり、コーディングの見落としから生まれたとMüllerは言っています。

学際的な思考がイノベーションにつながる

Müllerは多体物理学のバックグラウンドを持っていますが、その分野では記憶強度に関する問題は珍しいことではありません。多体物理学的洞察によって彼は記憶強度と負の記憶の調整がアルゴリズムにどのような影響を与えるかに気づきましたが、これは彼がその分野の経験がなければ起こらなかったかもしれません。

Müller以外にも、チームにはソフトウェア開発、システム、物性物理学、数論などのバックグラウンドを持つ研究者がいますが、そのようなチームが成果を上げていることは、量子のように急成長する分野において学際的な思考が重要であることを裏付けています。

そしてこのことは、量子コンピューティングをより広く実現するために世界に何が必要かについて洞察を与えてくれます。必要なのは学習の文化です。「物理学、エラー訂正、電気工学のすべてに精通している人を見つけるのは困難ですが、まさにそのような人材を私たちは必要としていました」とMüllerは言います。そしてIBMでは、視野を広げるということが量子コンピューティング・チームの文化の一部となっています。「誰もが何か新しいことに飛び込んで学んでいるのを見るのは素晴らしいことです。」

これからの行先

IBMチームは、リアルタイム・デコーダー・システムを作成するため、そして最終的には実際のデバイスが持つノイズ環境下でそのデコーダーをテストしようと、ますます注力しています。テストは早ければ、開発が予定されている量子プロセッサーKookaburraを使って2026年に開始される可能性があり、チームはRelay-BPがその研究実証で重要な役割を果たすことを期待しています。

「『そのためのアルゴリズムがある』という状態から、『そのアルゴリズムの効率的なハードウェア実装がある』と言う状態に今まさに移ろうとしているところです」と、IBM Quantum の Distinguished EngineerでありQuantum capabilities architectである Blake Johnsonは述べています。「Relay-BPはStarlingで使用される最終バージョンとは言えないかもしれませんが、少なくとも科学的発見のより大きなプロセスの一部です。」

Relay-BPによって、私たちはフォールト・トレラント量子コンピューティングの約束に一歩近づきますが、リアルタイム・デコーディングは依然として課題です。本研究では、量子演算ではなく、量子メモリのエラー訂正、つまり量子ビットを長期間安定した状態に保つ能力に焦点を当てていました。

特に一つの障害は、現在利用可能なデコーディング・ハードウェアが、私たちが実行したい種類の論理演算(つまり、量子演算)に対して十分にコンパクトではないことです。問題が大きくなるにつれて、適切にスケールさせることが難しくなるため、コンパクトなハードウェアが重要です。ただし、チームはすでにこの懸念に対処するためにデコーダーの修正を検討しており、IBM Quantumロードマップこちらの日本語ブログにも掲載)で約束されているフォールト・トレラント・アーキテクチャーを実現するデコーディングが可能な解を見出すことに自信を持っています。Relay-BPは、有用な量子コンピューティングを世界にもたらすための一歩です。

この記事は英語版IBM Researchブログ「Relay-BP: The world’s fastest, most accurate decoder for qLDPC error correction codes」(2025年8月4日公開、Leanne Cherry著)を翻訳し一部更新したものです。

監訳者

上田 健人

IBM Quantum、リサーチ・サイエンティスト

立花 隆輝

東京基礎研究所 シニア・テクニカル・スタッフ・メンバー

The DX Leaders

AI活用のグローバル・トレンドや日本の市場動向を踏まえたDX、生成AIの最新情報を毎月お届けします。登録の際はIBMプライバシー・ステートメントをご覧ください。

ご登録いただきありがとうございます。

ニュースレターは日本語で配信されます。すべてのニュースレターに登録解除リンクがあります。サブスクリプションの管理や解除はこちらから。詳しくはIBMプライバシー・ステートメントをご覧ください。

IBM量子コンピューティング

量子コンピューティングとは

量子コンピューターとは何でしょうか。古典的コンピューティングとどのように違うのでしょうか。この動画では、Jessie Yuが、量子コンピューターの5つの基本要素や、量子コンピューティングに対する影響について説明しています。