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AI×エコシステムによる個別最適で立ち向かう、超高齢社会の健康医療

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超高齢社会を迎えた日本において、健康寿命をいかに伸ばすのかということが社会におけるひとつの命題となっているなか、ヘルス・メディカル分野におけるAIの活用が注目され、各企業が開発を急いでいる。しかし、「人の健康」という課題は様々なファクターで構成される。一方で、一企業の力だけで、集めることのできるデータや、提供できるソリューションには限界がある。そこで求められているのが、複数の企業や研究機関、自治体からなる産官学などの異業種をまたぐエコシステムやデータプラットフォームの構築だ。ここではAIを活用した先進的な事例を紹介するとともに、超高齢社会を前にしたヘルス・メディカル領域にはなぜビジネス・エコシステムが不可欠となるのか、その理由に迫る。

高野 敦司
日本アイ・ビー・エム株式会社 グローバル・ビジネス・サービス事業
ヘルスケア・ライフサイエンス事業部 ヘルスケア・エコシステム 
アソシエイト・パートナー

分子細胞生物学、遺伝学の学士、修士をバックグラウンドに持ち、IBM入社後は製薬業界のR&D、安全性領域の業務改善やシステム構想策定など、複数の国内外プロジェクトにおいて、一貫してヘルスケア・ライフサイエンス業界に従事。現在は産官学連携のヘルスケア案件や、異なる業界の企業との連携による新しいエコシステムビジネス創出を推進している。

 

AI活用における課題を打破する「エコシステム」

――超高齢社会を迎えた現代の日本における、ヘルス・メディカル領域でのAI活用の現状と課題についてお聞かせ下さい。

高野 社会全体で見ると、今はAIの活用よりも技術が先行している状況にあります。AIを使えば絶対に何か新しいことができるだろう、という期待値が原動力となって、各地で盛んにPoC(Proof of Concept=概念実証)が行われている段階です。ただ、そのほとんどがPoCの段階で終わってしまい、社会実装まで辿り着いてはいません。理由はいくつかありますが、ビジネスモデルがしっかりと描けていないことが大きな理由の一つだと考えられます。技術的には進んでいても、コストや収益という点においてはまだ時期尚早、といった理由で止まってしまうプロジェクトが多いようです。

もうひとつの大きな理由としては、法的な整備が追いついていないことです。ヘルス・メディカル領域というのは、個人情報やプライバシーに深く関わる分野だけに取り扱いが難しい。各企業や医療機関は政府のお墨付きなしには動きにくいですし、関わる人すべてがWin-Winになるというところまで社会が成熟していないのが現状です。ただ、技術的には可能なことがたくさんあるので、それを実際に活用してビジネスモデル化していくための枠組みが求められているのだと思います。

――IBMは、この領域でのAIの活用においては、複数の企業や機関からなるビジネス・エコシステムが不可欠であると提唱しています。

高野 IBMの特徴のひとつは、政府自治体を含めて全業界横断でビジネスをしていることです。このような形でビジネスに携わっていると、ひとつの企業や業種にできること/できないことが自然と見えてきます。ヘルス・メディカル領域のように、多岐にわたる要素、例えば食事、運動、睡眠、体の状態などが絡み合うような課題に取り組むためには、それぞれを専門とする企業が、複数社で協力し合ってエコシステムを構築することこそが近道だといえます。

最近よく耳にする「SDGs(Sustainable Development Goals)」や「オープンイノベーション」といった言葉も、結局、同じことを指していると言えます。一企業単独では解決できない複雑な課題に対して、複数社で同じビジョンを描き、ビジネスとして社会定着させましょうと、政府や国連も言っているのです。

高野氏

――エコシステムと同時に、今、データプラットフォームの構築も求められています。こちらに関しては、どのようなスタンスを取っているのでしょうか?

高野 ヘルス・メディカル領域でデータプラットフォームを構築することを考えても、やはりエコシステムこそが最良の仕組みだと言えます。ヘルスケアデータと一括りに言っても、そのデータは実に多岐にわたります。例えば、外部から観察できる情報だけでも、表情や視線、姿勢、行動、運動、食事、睡眠とあります。これに検診情報など体内の健康状態を測る指標もあることを考えると、ヘルスケアデータは多くの要素から成り立っていることが分かります。

現状はそのようなそれぞれの要素に対して病院、製薬会社、飲料会社、医療機器メーカー、寝具メーカーなどの企業が個別にデータを取って、治療や自社の製品開発などに役立てている状況です。この先、さらに高齢化が進むなかで、より健康寿命を伸ばしていこう、あるいはペイシェントセントリック(患者中心)やヒューマンセントリック(人間中心)といった個別最適化を考えるとき、各種データを包括的に扱える「器」としてのデータプラットフォームは不可欠になってくると考えられます。もしこれを一社で実現しようとすると、計り知れない労力と予算がかかってしまう。しかし、エコシステムを構築していれば、各企業が集めたデータを分析して活用していくという形が可能になるのです。

 

AIとデータを駆使して目指す、個別最適化

――今取り組んでいる産学連携エコシステムのプロジェクト概要とIBMの役割をお聞かせ下さい。

高野 順天堂大学のプロジェクトは、パーキンソン病の患者や認知機能が衰えてきている患者を対象に、AIチャットボットでのデータ収集、分析を行い、それを遠隔診療に生かすというものです。このプロジェクトにおいてIBMは、データの収集と分析を担当しています。

対象となるパーキンソン病や認知機能の診断には、病院での診察当日の状態だけではなく、日々の生活をどう過ごしているかのデータが非常に重要です。一方で医師は数週間に一度の診療の際にしか患者の状態を確認できず、本当に知りたい日々の様子までを、短い診療時間内に把握することは難しい。このプロジェクトでは患者に日々AIチャットアプリと短時間の会話をしてもらうことで事前にデータを集め、医師向けに分析ダッシュボードレポートを提供できる仕組みを導入しています。

まだ臨床研究を始めて日は浅いのですが、医師の時間効率化や労力低減、患者の満足度などの点でかなりのメリットがあることがわかってきました。医師にとっては、通常の診察だけでは把握できない患者の日常の状態がデータ化されますし、患者目線では、AIを相手に話したことがちゃんと先生に伝わっていて「つながっている」「見守ってくれている」という実感が得られるようです。

――エコシステムという観点で見たとき、このプロジェクトに参画している各企業は何をしていて、どのようなメリットを得ているのでしょうか。

高野 たとえばキリンホールディングス社の場合は、神経変性・認知症疾患の予防に、特定の食品物質の摂取が役立つかどうか検証を行うことを目的に参加されています。ただ、現場はもっとフレキシブルで「AIがここまで進歩しているなら、こういうデータも分析することができるのではないか」、「もっと新しいこともできるのではないか」といった議論が自然発生的に起こり、新しい可能性の模索が始まります。

私たちは、こうした議論の土壌があること自体が、エコシステムで取り組むことの意義のひとつだと考えています。データについても、飲料メーカーの場合、今までは製品を飲んでもらって「美味しかった」「飲みやすかった」というような飲料の味やパッケージに関する感想をアンケートで集めていると思いますが、ヘルスケアエコシステムのデータプラットフォームを介することで、「この製品はこういった生活シーンや、体の状態の時によく飲まれる傾向にある」「この製品をある期間、継続的に飲むと認知機能の予防効果がX年間持続する」などといった、今まで取得できなかったデータも集められる可能性が出てくる。そうなると、例えば、マーケティングのターゲットを従来より細かく層別化することができるようになり、ターゲットごとに最適な飲み物をお届けするというサービスやマーケティングの細分化が発生します。これもエコシステムの効用であると思います。

高野氏

――沖縄県の久米島では、琉球大学主導で行われている産官学連携の「久米島デジタルヘルスプロジェクト」にも参加されていますね。

高野 こちらは3年前にスタートした琉球大学と沖縄県、久米島町、製薬企業、IT企業が連携しているプロジェクトです。沖縄県といえば長寿のイメージが強いかもしれませんが、最近は食生活の変化によって糖尿病などの生活習慣病やその予備軍といえる人が増えているといいます。そこでテクノロジーを用いて生活習慣の改善に取り組もうと始まったのが、この「久米島デジタルヘルスプロジェクト」です。

具体的には、被験者の方にスマホや500円玉サイズの活動量計を持ってもらい日々の活動データを取ったり、健康促進のためのメッセージを配信したりしています。生活習慣病は文字通り生活習慣が大切ですので「もっと運動しましょう」「今日は早く寝ましょう」「この食材を食べましょう」といった行動を促すメッセージをメールで送信します。そして受け取った相手にはそのメッセージに沿った行動をしてもらい、各個人の生活習慣を改善することを目的としています。ポイントとなるのはメッセージの個別最適化です。被験者の方が住んでいる場所、季節や時間帯、勤務形態、更には性格や好みなどを細かく分析したうえでメッセージを配信し、そのメールの内容を「我が身ごと」と感じていただく。これが非常に大切なのです。

――個別最適化は具体的にどのように行われているのですか。

高野 たとえば、被験者の方の家の近くに運動できる施設があれば、そこに行ってみるように勧める。そうすると被験者の方にも「ちゃんと自分のことをわかってくれているんだ」と安心していただけます。さらに、行動心理学、行動経済学的な観点で性格を分析して、メッセージの内容を選択しています。Aさんには理路整然と伝えたほうが良い、Bさんはちょっときつめに言ったほうが動いてくれる、Cさんにはメリットを強調して伝えると良いなど、データが増えるに従って個々の方にマッチしたメッセージを出せるようになります。テクノロジーを用いて継時的に情報を分析し、個別最適化を図っていく。これがこのプロジェクトの新しい部分です。

高野氏

 

科学的に証明しなければビッグデータも意味がない

――今お聞きしたように、すでにAIをはじめとするエコシステムを形成する要素が整いつつあるのですね。これをいかに社会実装していくかが今後の課題だと感じられます。

高野氏

高野 そのためには、やはり最終的にビジネスという形で定着させることが大切です。「久米島デジタルヘルスプロジェクト」の場合は研究事業ですので、琉球大学の先生方が学術論文を発表されるとそこで一旦は終了となります。研究事業で得られた成果を社会実装するには、どうしてもビジネスとして発展させる必要があります。IBMとしては、このプロジェクトでの経験をもとに、こうした糖尿病予備軍の方々を対象としたビジネスのご支援ができるのではないかと期待しています。

例を挙げると、コンビニ会社や食品会社と協力して糖尿病予備軍向けのPB商品開発のためのデータ分析や、お客様がコンビニに入った際に、その方に適した商品をスマホを通じてご案内するアプリケーションの開発など。技術的にはすでに可能なものですので、個別最適化のソリューションが実装できると、そのコンビニチェーンは他社との差別化が図れるはずです。そのような会社が増えていけば、自然とAIが社会実装されるようになるはずです。我々としては、エコシステムやデータプラットフォームを通してそんな世界を実現したいと考えています。

ただ、そこに至るには最初に申し上げたように越えなければならない壁があります。ヘルス・メディカル領域で扱うデータは非常にプライバシー性の高いものです。厳格なプライバシー基準を確実に守りながら、しかし一方ではエコシステムでデータを交換していかなければならない。このジレンマをうまく解くにはどうするべきか。一つの手法として、こうした取り組みに熱心な自治体と協業して特区を作り、その中で本当に必要な規制がどうあるべきかを含めて技術検証し、安全なエコシステムの姿を実証していくことが考えられます。そこで問題ないことを実証し、そのモデルを全国に普及させていくというアプローチは、こうした新たな取り組みを進めるにあたって必要になると思われます。

そしてもうひとつ、データプラットフォームにおいて重要なのは、集まってくる膨大な量のデータを、科学的に正しいときちんと証明することです。ヘルス・メディカル領域においては人体や人の健康や命が対象ですので、そこに科学的に正しい証明ができなければ社会実装は不可能です。少なくともIBMはそういったスタンスで、大学との共同研究で学術的な論文を出し、それらを踏まえたビジネス展開をしています。私たちが、IBMリサーチという独立した研究所を持っている理由もそこにあるのです。順天堂大学や久米島のプロジェクトにも、もちろんIBMからはリサーチの研究員が参画していて、そのアイディアや、論文を通じて証明した内容を我々コンサルタント部隊が実装するといった戦略をとっています。私たちが他のコンサルティングファームと一線を画す点は、このように研究者、コンサルタント、エンジニアが協業して科学的な正確性も追求しながらデジタルヘルスのプロジェクトを推進している点であり、これはIBM独自の強みです。

――日本は世界でも類を見ないほどの超高齢社会を迎えています。これに対応するにはやはりエコシステムしかないように思えます。

高野 IBM各国のチームからも、超高齢社会の先頭を走る日本が何をするのか、大変注目されています。超高齢社会を考えたとき、目標として掲げられるのは、いかにして健康寿命を伸ばすかで、そのためにヘルス・メディカル領域は、より個別最適化されたヒューマンセントリックな方向へと向かうでしょう。また、高齢者になればなるほど個別最適化は必要になります。ひとりの高齢者がさまざまな課題に直面するとすれば、それぞれの課題に対応できる人や企業が高齢者の周りを更に取り囲み、最適解を提供するような世の中にしていくしかない。繰り返しますが、こうした体制は一単独企業だけでは実現できません。だから、エコシステムやデータプラットフォームを構築しなければならないのです。それと同時に、AIもより進化させて、画一・単一的な正解がない中でより複雑な事象を解析し、より人の好みや性格に対して提案できるように開発を進めていく必要があります。これからも私たちは産官学に渡る経験と、IBMリサーチを代表とする技術力を強みとして、多くのお客様と協業させていただきたいと思っています。