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量子コンピューティングのビジネス活用——価値最大化に向け、今まさに必要な準備

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西林泰如

西林泰如
日本アイ・ビー・エム グローバル・ビジネス・サービス事業本部
戦略コンサルティンググループ
シニア・マネージング・コンサルタント
IBM Q Ambassador / IBM Q Consulting Japan Lead


総合電機メーカー、米国系戦略コンサルティングファームを経て、IBMに参画。専門はビジネスとテクノロジーの両輪に関する、経営企画・経営戦略、事業開発・事業戦略、提携・投資/M&A、海外進出(米国シリコンバレー、シンガポールなどでの海外駐在経験)、情報通信・インターネット技術(日米120件超の特許の筆頭発明者)。IBMではGlobal Digital Strategy Groupに所属。量子コンピューティングを中心にIBMがリードする破壊的テクノロジーによる革新をテーマに、経営戦略・事業戦略、デジタル戦略、オペレーション戦略、組織チェンジ・マネージメント、テクノロジー・データ戦略の戦略業務に従事している。工学修士(MEng)、および、経営管理修士(MBA)。

橋本光弘

橋本光弘
日本アイ・ビー・エム グローバル・ビジネス・サービス事業本部
戦略コンサルティンググループ
マネージング・コンサルタント
IBM Q Ambassador / IBM Q Consulting Japan Lead


日本学術振興会特別研究員(DC1)、国内大手電機メーカー研究員(中央研究所、米国研究所他)として、ストレージデバイスの研究開発に従事。その後、米国系戦略コンサルティングファームおよびIBMにて、電機・機械・自動車・エネルギー・金融業界のコンサルティングプロジェクトに参画。専門領域は全社戦略(中期経営計画、ポートフォリオ戦略、シナリオプランニング)、新規事業戦略、M&A(ビジネスデューデリジェンス・PMI)、オペレーション改革、組織再編。近年は特に、量子コンピューティング・IoT・AI・ブロックチェーンなどのテクノロジーを活用した新規事業戦略策定やオペレーション改革をテーマに、プロジェクトを多数手掛けている。博士(工学)。

数年前までは「世界に変革をもたらす夢の技術」と謳われた量子コンピューティングだが、今や「実用化のステージ」を迎えている。量子コンピューティングの開発を巡るベンダー各社の競争が激しさを増す中、その最先端をひた走るIBMは、量子コンピューティングの活用によって新たなビジネスチャンスが創造される革新的な未来を見据えている。
本記事では、2019年10月29日に行われた「量子コンピューティング・ビジネス 特別セミナー」のレポートを通じて、量子コンピューティングの最新動向とともに、IBMの新たなご提案を紹介する。

 

量子コンピューティングの“今”——熾烈な競争の始まり

冒頭、IBM グローバル・ビジネス・サービス事業本部 戦略コンサルティンググループ シニア・マネージング・コンサルタント IBM Q Ambassador / IBM Q Consulting Japan Leadの西林氏が登壇。量子コンピューティングのステージについて、説明がなされた。IBMは、下記のとおり3つのフェーズに区切って定義している。

・Quantum Science
量子コンピューティングの基礎学問構築のフェーズ

・Quantum Ready
量子コンピューティングの実用化のめどが立ち、実際に導入していくための事前準備のフェーズ(=現在地)

・Quantum Advantage
量子コンピューティングが実際に企業などの問題解決に活用され、幅広く展開していくフェーズ

「現在地となるQuantum Readyにおいては、IBMは非常に大きな役割を果たしてきていると思います。2016年にクラウドベースで誰でもアクセス可能な量子コンピューティングを公開しました。さらに、『IBM Q Network』を展開しエコシステムの構築を進めています。今後、2020年代に差し掛かるとQuantum Advantageのフェーズに突入し、具体的なユースケースやアプリケーションが見定まり、企業においてさまざまな応用が進んでいくと見込んでいます」(西林氏)

さらに、西林氏は「Algorithm Development」という言葉をキーワードとして挙げた。

「今は、量子コンピューティングが有効なユースケースやアプリケーションを特定し、そこに必要なアルゴリズムの開発、実装評価を行なっていくという重要なフェーズ。いち早くその“キラー”アプリケーションを見つけ出した上で、その実装と活用に向けた開発を進めていき、加えて知的財産権を取得しながら競争優位性を高めていくという、非常に重要な局面に差し掛かっています。まさに熾烈な競争が始まっていると言えるでしょう」(西林氏)

実際に、量子コンピューティングの性能自体は急速に向上してきている。2019年1月には、20量子ビットの量子コンピューター「IBM Q System One」が発表された。その9カ月後には、53量子ビットの量子コンピューターも開発されている。これは、まさに量子コンピューティングの技術革新の速さを示す証左と言えよう。

エコシステム構築の動きも活発化してきている。重要な鍵を握るのは「IBM Q Network」だ。協創パートナーが集まり、アカデミアはもちろん、企業とのパートナーシップの構築やエコシステムに関する討議がなされ、活発な議論が交わされている。さらに、「IBM Q Network」と直接パートナーシップを結んだ上で量子コンピューティングを活用してもらうという取り組みも始まっているという。

 

量子コンピューティングが有効な4つの領域

次に、IBM グローバル・ビジネス・サービス事業本部 戦略コンサルティンググループ マネージング・コンサルタント IBM Q Ambassador / IBM Q Consulting Japan Leadの橋本氏が登壇し、量子コンピューティングが有効な領域について解説した。

「量子コンピューティングというと、『どの様な問題でも驚異的なパフォーマンスで計算ができる夢のコンピューター』というイメージを持たれることもありますが、実際にはそうではありません。たとえば、『1+1=2』といった加算演算などは、現在のコンピューティング(以下、古典コンピューティング)よりも早くできるわけではありません。量子コンピューティングの特徴として、情報の基本単位である0と1を重ね合わせの状態で表現できる特性を持った『量子ビット』という単位を使用することが挙げられますが、そういった特性を有効活用できる問題だけが高速、あるいは高精度に計算できるようになります。そのため、少なくとも当面は、古典コンピューティングの全てを置き換えるのではなく、『この部分の計算は量子コンピューティングでなければ解けない、あるいは量子コンピューティングを用いることで高速化できる』領域のみを置き換えるという使い方になると考えられます」(橋本氏)

では、量子コンピューティングの活用が有効な領域とは、どのような領域になるのか。様々な業界でユースケースの議論が活発になされているが、アルゴリズムの観点からは以下の4つが考えられるという。

1:Model physical processes of nature
ミクロな物理現象の解明などの領域。物理学者Richard Feynmanは1980年代前半、従来の古典コンピューターでは量子系のシミュレーションに膨大な計算リソースを必要とすることから、量子現象を利用することでその問題に効率的に対処できることを示唆していた。実際に、量子コンピュータが分子のエネルギー状態のシミュレーションに活用できることは、総合科学ジャーナル『Nature』において、2017年に発表された。

「化学シミュレーションは有望領域の一つで、かつ量子コンピューティングの威力が理解しやすい領域の一つです。分子のエネルギー状態の計算は分子量の小さな分子であれば古典コンピューティングでも解くことが可能ですが、分子量の大きな分子となると非常に困難です。たとえば、カフェインのエネルギー状態のシミュレーションをしようとすると、量子コンピューティングであれば160量子ビットほどで計算可能ですが、古典コンピューティングで計算しようとすると、地球上に存在する原子の数%ほどに相当するビット数が必要になると言われています。それほどの数の原子を制御する古典コンピューティングの構築はもはや現実的ではありません」(橋本氏)

2:Perform significantly more scenario simulations
将来予測などのさまざまなシナリオのシミュレーションを必要とする領域。特に、金融機関における 「ポートフォリオの最適化」などのビジネス課題への検討が進んでいるという。投資判断では、乱数を用いて統計的にリスクを評価する「モンテカルロ・シミュレーション」が用いられてきたが、ここでも量子コンピューティングが高い親和性を持つことがわかっている。

「モンテカルロ・シミュレーションでは統計的に十分な精度の結果を得るためには計算に用いる乱数のサンプル数を増やす必要があります。古典コンピューティングでは、シミュレーション結果の誤差はサンプル数の平方根に反比例して減少します。例えば、100個の乱数を用いて得られた結果の誤差を1/10にするためには、10,000個の乱数の計算が必要になります。ところが、量子コンピューティングでは計算の誤差がサンプル数の増加に反比例して減少するアルゴリズムがあります。先の例では、量子コンピュータでは100個の乱数を用いて得られた結果の誤差を1/10にするためには、1,000個の乱数の計算で十分ということになります。このように、量子コンピュータというと計算できる量が多いというイメージを持たれることがありますが、この例のようにアルゴリズムによっては少ない計算数でも高い精度が得られるようなものも存在するのです」(橋本氏)

ファイナンス領域は高い精度でリスクを評価することができれば、よりリスクを取った投資が可能となり、より大きなリターンを見込むことができるため、熱い議論が交わされている。そして、このようなモンテカルロシミュレーションが有効な領域はファイナンスに限らない。製造・ヘルスケアなどでも活用できる、非常に汎用性があるアルゴリズムと言える。

3:Obtain better optimization solutions
最適化計算の領域。1と0を重ね合わせた状態を表現できる量子コンピューティングを用いれば、より広い探索領域で最適なパラメータを探索し、より良い結果が導き出せるというもの。

「ある地点から別の地点に移動する際に『最も速く、かつ安価で行くための経路や方法の導出』など、変数が多く、それらの組み合わせの計算が必要になる最適化問題では、いわゆる『組み合わせ爆発』と呼ばれる課題が発生します。最適化はさまざまな領域において必要とされており、量子コンピューティングの有望領域の一つとして盛んに検討が行われています。」(橋本氏)

4:Find better patterns within AI/ML processes
AIや機械学習の領域。AIや機械学習は膨大なデータを用いた計算量を必要とするが、この領域でも量子コンピューティングが活用できることが前述の『Nature』において、2019年に発表された。AIや機械学習も応用領域が非常に広いため、大きな関心が寄せられている。

「AIや機械学習は現在、さまざまな用途で活用されていますが、たとえば製造業では製造工程における歩留まり(*)の解析などにも使用されています。しかしながら、古典コンピューティングでは学習できるデータ量に限りがあるため、この制約を取り払いたいというニーズが強く存在しています。このような背景のもと、量子コンピューティングのユースケースの一つとして検討されています。」(橋本氏)

*歩留まり(ぶどまり):投入した原料や素材の量に対して、実際に得ることができた製品(良品)の割合

 

加速するユースケースの検討

前述の4つのアルゴリズム領域に対して、「どのように量子コンピューティングが活用できるのか」というユースケース作りが、現在世界中で加速している。たとえば、製造業では材料探索や製品設計といった上流工程から製造プロセス・サプライチェーンといった下流工程に至る業務領域でユースケースが検討されている。セミナーでは質疑も交えて説明がなされたが、製造業におけるユースケースについては『量子コンピューティングの活用に向けた布石 -製造業におけるユース・ケース探索- (PDF, 1.0MB)』でも公開されているため、そちらを参照されたい。

 

量子コンピューティングのビジネス応用——海外事例

再び西林氏が登壇し、量子コンピューティングのビジネス活用における海外事例について解説した。特に参考となるのは、自社の事業課題に対する適用と、その一連の流れと言えるだろう。以下は、大手航空機メーカーの事例となる。

まず、当該企業の経営課題として、以下が挙げられた。

  1. 航空機の開発には約10年という非常に長い期間がかかり、数千億円規模の大きな投資が必要になる。しかし、その間にもマーケット自体は大きく変化していくため、適切な投資判断ができなければ事業に多大なダメージを与えてしまう
  2. そのため、将来起こりうる事業機会とその打ち手の将来予測を行なっていたが、その中で短距離路線への対応が最適化できれば、そこに競争優位性が生まれてくることを見出した
  3. 短距離路線を見据えた機体設計においては、離着陸での燃費消費比率が大きいため、この部分の最適化が求められる。積載量が制限される機体レイアウトに考慮した積荷オペレーションも同様である

上記課題の解決には複数のパラメータの最適化が必要となり、「組み合わせ爆発」により計算量が指数関数的に増大する。たとえば、航空機が機体を上昇・下降させることだけを鑑みても、時間・燃料・天候・温度・湿度などのさまざまなパラメータを踏まえながら、機体やエンジン設計の最適化が必要になる。

 

これらを勘案し、当該航空機メーカーは、2015年から量子コンピューティングの活用に向けた取り組みを開始した。最も重要なフェーズとなる「量子コンピューティングの適用可能領域の検討」や「ロードマップの擦り合わせ」を経て、実機を使った実証フェーズに移行。そこで有効性を明確化し、自社の中での体制化、研究開発や知的戦略ロードマップへの本格的な組み込みを実施していったという。

「さらに2018年の年末には、シリコンバレーで開催されたカンファレンス『Q2B Conference 2018』にて、『クオンタムコンピューティング・チャレンジ』という構想を発表しました。これは、自社事業における量子コンピューティングが有効な領域を公開し、それを量子コンピューティングで解くアプローチを提言し認められた団体に対して、ファンドの実施や製品計画への参画を保証するものでした。つまり、オープンイノベーションでの公募を実施したわけです。2019年12月まで受け付けており、今年の年末に開催予定の『Q2B Conference 2019』にて途中経過を公表する予定です」(西林氏)

このような取り組みを進めているのは、航空機メーカーだけではない。たとえば自動車メーカーも同様に、技術探索から活用可能性、POC(概念実証)、知財戦略策定、組織化まで実現しているという。

「Q2B Conference」は、量子コンピューティングに関する最新の技術動向やビジネスへの応用などが検討されるカンファレンスであり、昨年はIBM、Microsoft、Googleがゴールドスポンサーであった。2017年より開催されているが参加者は年々倍増してきており、その“盛り上がり”が伺い知れる。

 

量子コンピューティングの価値最大化に向けて、必要となる準備

Quantum ReadyからQuantum Advantageへの移行と、量子コンピューティングは大きな時代の転換点に差し掛かろうとしている。そのような中、今まさにこの領域に取り組むべき必然性と押さえるべきポイントを、西林氏は以下のように語った。

「自社のケイパビリティの明確化やエコシステムへの参画、知的財産権などの準備が遅れてしまうと、そもそもの事業機会を逸してしまうことになります。そのためQuantum Advantageの時代を見据えて、早い段階から量子コンピューティングの活用に向けた検討に着手することが非常に重要なのです。特に、企業ごとに将来予測のシナリオは異なるので、自社にとってインパクトのある領域を見定めて、将来どのような変化が起こってくるのかを予測する必要があります。その上で具体的な計画を策定していくのです。また、量子コンピューティング単体ではなく、AIやマシンラーニング、ビッグデータ、ブロックチェーンなどのさまざまな技術と互いに融合しながら全体像を作っていくことも重要でしょう」(西林氏)

しかし、これらの取り組みを1社単独で行なっていくのは非常に困難であるため、人材育成やエコシステムの形成を含めて、クオンタム・ケイパビリティを身につけることが肝要だ。これらを念頭に、取り組むべきQuantum Advantageへの道筋を以下の5ステップにまとめた。

  1. 量子コンピューティングそのものの技術動向とともに、業界のインパクトや動向も把握する
  2. 量子コンピューティングが有効な事業機会を把握し、自社の潜在的ユースケースを特定する(特に重要)
  3. 量子コンピューティングの実機を使い、問題解決の可能性や優位性を検証する
  4. 自社の研究開発や事業戦略のロードマップへの組み込み、実行施策を設定する
  5. 量子コンピューティングの急速な技術革新(さまざまなアプリケーションの台頭など)、自社の事業環境の変化に柔軟に対応していく

IBMでは、これらのステップを包括的にサポートするために、「IBM Q quantum strategy engagement」という共同ワークショップを開催。各業界、各企業が置かれている環境を踏まえた上で、ユースケースの特定やロードマップ策定、エコシステムの構築、事業への適用、効果測定などを支援している。また、量子コンピューティングへの深い理解、業界固有の課題の両者を見定めた上で取り組んでいく必要があるため、各業界に通じるエキスパートによるサポート体制が構築されている。

質疑応答の時間に寄せられた多くの質問の中には、「量子コンピューティング領域におけるIBMの特色や強みは何か?」という率直なものも挙がり、IBMから回答がなされた。

「強いて言うとしたら、IBMは量子コンピューティングのハードウェア、ソフトウェア、さらにそれを活用するビジネスアプリケーションまで、一気通貫で手掛けています。また、企業ごとに異なるさまざまなユースケースやアプリケーションを探索し、それをビジネスに組み込んでいくことまで可能な環境がIBMにはあります」(西林氏)

「IBMは2016年からクラウドで量子コンピューティングシステムを公開しています。ユーザーが量子コンピュータにアクセス可能な時間の比率は95%を超えています。このように安定的に量子コンピューティングを使って誰でも実験ができる環境を整えている企業は他にはありません。この点もIBMの特徴であり強みと言えると思います」(橋本氏)

急速に技術発展が進む量子コンピューティング。ビジネスへの応用によって、新たな事業機会の創造も“指数関数的”に広まっていくことだろう。