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最先端のIoTヘルスがもたらす、
新たな人と医療との関係

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65歳以上の高齢化率が全人口の3割に迫る超高齢社会の日本。「人生100年時代」と言われるようになった今、人々が最も望んでいるのは自分らしい日常生活が送れることだ。高齢者のQOLをいかにして支えるか、期待されているのが日常のヘルスケアにおけるITの活用だ。最先端のAIやIoTヘルスがもたらす、新たな人と医療との関係を追った。

 

テクノロジーが支えるこれからの高齢者のQOL

――日本では65歳以上の高齢者が3557万人(「2018年9月推計/総務省統計局人口推計」)と総人口に占める割合が28.1%となり、今も増加の一途を辿っています。そんな中、医療の現場では医師不足や医療費の増大などの問題が深刻化しています。こうした状況下において、AIやIoTなどのテクノロジーは重要な要素となってくると思われますが、具体的にはどのような役割を果たしていくことになるのでしょうか。

65歳以上の人口比率推計

65歳以上の人口比率推計

高木 アイ・ビー・エム(以下IBM)ではグローバルチーム含めて長年、ヘルスケア領域におけるAIの活用をテーマに研究に取り組んできました。一つの大きな流れとして、「超高齢社会」やその先のいわば「超超高齢社会」とも呼べる時代では、病院の機能がどんどん日常生活に溶け込んでいくことが予想されます。これまでのように「医療機関での受診」が治療の第一歩ではなく、日常生活の中での各種動作のセンシングデータにより、例えばアプリ上で体の状態を管理していく――テクノロジーに24時間見守ってもらうというIoTヘルスの時代になっていくでしょう。

 

――そうなれば病院の医師はより治療に専念できるようになります。増加を続ける医療費の削減にも貢献しそうですね。

高木 確かにIoTヘルスが実用化すれば医師不足という問題解決の一助になるでしょうし、医療費の削減も期待できます。ただそれはあくまで結果であって、私たちがもっとも大切にしているのは一人一人のQOL(Quality Of Life)の向上です。高齢者の方々に話を伺うと、皆さん口を揃えて「自分らしく生きたい」「できるだけ長く今まで通りの日常生活を送りたい」と仰ります。「年齢を重ねて認知機能や身体機能が衰えても可能な限り自分の家で自分らしく生活したい。もし病気になっても早期に発見して治したい」私たちはそうした皆さんの希望にお応えするべく研究に励んでいます。

高木氏

 

日常生活のセンシングで疾患を早期発見

――IoTヘルスでは具体的にどんなことができるのでしょうか。

高木 中心となるのは日常生活のセンシングです。近年のセンサー技術の進歩は素晴らしく、センサーによって取得可能な身体の動きや状態に関するデータが増え、その精度も年々向上しています。こうして取得したデータを分析することによって、その人の健康状態を推定できるようになってきたのです。

――どのような方法で、どういった身体データが取得できるのでしょうか。

高木 代表的なものとして、咳などの音や会話中の音声、TVを見ている時の視線や、文章を書いたり歩いたりといった動作など、日常生活の自然な動作のデータをセンサーから取得し、AIを用いて分析するという方法があります。その結果によって、認知症や精神疾患などの早期発見や、パーキンソン病などの症状の評価を目指した技術が進んでいます。

中でも歩行は、一般の人の目でも、例えば肩を落として歩く様子から、精神的に落ち込んでいるなどの変化が直感的に分かるほど情報量の多い動作です。今でも医師はより細かい歩行速度や姿勢、歩行開始・停止時の特徴などを目で見て、認知症など様々な症状の判断に利用しています。センサーと解析技術の進歩により、この「医師が持っている暗黙知」を指標として表すことが可能になりつつあります。

他にも音に関するデータであれば、会話の内容から精神疾患の症状を読み取る(*注1)、咳の音から肺疾患の症状を推定する(*注2)など、医師が目で見たり、耳で聞いたりして判断に活用している情報をコンピューターが分析できるようになります。まだまだ人間の感覚の方が優れている部分も多いのですが、医師の診察は多くの場合において「診療所で、診療時間の中で」という形で時間も場所も限られているのに対し、コンピューターには長期間にわたって継続的にセンシングができるという大きなメリットがあります。

IoTヘルスは医師に代わるものではありません。しかし見逃してしまう可能性のある小さな変化を、日常生活の中で見出して医師の診察・判断につなげることで、医師の仕事を補って助けるという役割を担うことができます。

――歩行や音声などの他に、センシングの対象で現在研究を進めているものはありますか。

高木 いくつかありますが、そのうちの一つは描画です。文章や模写、思い出しながら図を描くという作業は、思いのほか様々な運動機能や認知機能を要する作業だと言われています。実際、認知症のテストでも採用されています。有名なのは「時計を描く」というテストで、円形や、文字盤の数字を等間隔に描けるかどうかといったことから認知能力が推定できます。紙とペンでできるテストですが、更にタブレットを使用することで、描かれた画そのものだけでなく、細かい筆圧や運筆の滑らかさなどもデータとして取ることができるのです。

他にも視線の動きなども有力な研究対象の一つです。我々の最新の研究では、テレビを観ている時のような自然な視線から、精神的疲労を99.4%の精度で検出できるモデルも報告しています。(※)。

※本研究の一部は科学技術振興機構(JST)の研究成果展開事業【戦略的イノベーション創出推進プログラム】(S-イノベ)の支援によって行われたものです。

私たちが行なっているのはあくまでも基礎研究ですが、一般に普及すれば疾患の早期発見だけでなく、高齢化に伴う身体能力や認知能力の低下を推定し予防に生かすことや、日常生活動作ADL(生活における自立度を評価する指標。国際的な標準があり、日本では要介護度判定の一部にも利用されている。)のアセスメントへの活用など、さまざまな用途が考えられます。

重要な用途の一つとして、健康状態を推定し、変化があれば基準に基づいてアラートを出して注意を促したり、病院での受診を推奨するといったものがあります。IoTを使用したヘルスケアは病気そのものを治すことはできません。ですが、健康状態についてのフィードバックは行動変容を起こすきっかけを作ることがきます。また、病院側にとっては、受診のきっかけとなるのに加えて、日常生活の自然な環境で実際にどのように健康状態が変化しているのかを知れるようになることもメリットとなります。病気というものは一般的に発見が早期であればあるほど治癒率が高く、また進行を遅らせることが可能です。これはIoTヘルスの役割において重要なポイントです。

高木氏

 

医療分野以外へも広がるテクノロジー活用

――グローバルでのテクノロジー研究はどのような形で行われているのでしょうか。またこうした研究は医療の領域以外で社会のどのような場面で有効活用されるとお考えですか。

高木 基本的には各国に研究チームがいくつかあり、それぞれに研究を進めています。場合によっては、研究テーマが重なる他の国のチームとも連携を組みます。特徴的なのは各国の医療機関や医師、大学などと共同で研究をしている点で、それぞれの国の強みを研究に反映していくことができる体制こそが、グローバルで研究を進めるIBM全体としての強みと言えます。

たとえば高齢者研究においてはアメリカのUCSD(カリフォルニア大学サンディエゴ校)と連携しています。現地に高齢者のQOLを向上させることを目的とした研究所があり、そこに東京基礎研究所のメンバーが測定技術等をリードする形で研究活動を行なっています。

このように大学と協業することは、ヘルスケアの領域では実はとても重要です。なぜならば、ヘルスケアの技術は人に影響を及ぼすものであり、社会に出す前に技術の有効性を客観的に示し、それを学術的にも評価をしていただくことが不可欠だからです。そのためにも大学との協業の中で、査読付きの論文誌に投稿し、その妥当性・有効性を科学的にしっかり吟味した上で、社会に出していくというプロセスを重要視しています。社会に受け入れていただくためのプロセスを重視して研究活動を進めています。

こうした基礎研究によって生まれたテクノロジーを社会に実装し、エンドユーザーの皆さんにご利用いただくには、パートナー企業との協業が欠かせません。病院などの医療機関はもちろん、製薬会社や保険会社、製造業など、すでに協業している業界、企業はたくさんあります。

一つ、銀行を例として挙げましょう。預金者の認知機能が衰えてくるとどうなるでしょうか。ATMでお金を引き出すにもパスワードを忘れてしまう、あるいは口座を持っていること自体を忘れてしまうといった事態が起きるかもしれません。これからの超高齢社会を考えると、仮にそうなってもその人の口座をちゃんと保全して家族が活用できる仕組みにするなど、法律や社会システム、ビジネスモデルも調整していく必要に迫られるでしょう。その変化の中で、IoTヘルスをはじめとしたITにできることは絶対にあるはずです。変化に対応してより良い社会を築く一助となれるよう、私たちは研究をより深めていかねばならない。一企業であるIBMが基礎研究に取り組む意味の一つはここにあります。

高木氏

 

――現実にIoTヘルスを社会実装していくには製品化やコストダウンといった課題があります。また高齢者にはデジタル機器に対する抵抗感を持つ人が少なくありません。その点はどう考えていらっしゃいますか。

高木 最終的にはタブレットデバイスやスマートウォッチなどのウェアラブルセンサーの形にしていく必要があると考えています。実際の研究においても、高価で高精度な機器と安価なデバイスの両方で同時にデータを取得し、用途に応じてコスト面でも最適なデバイスが選択できるように研究を進めています。

高齢者特有のデジタル機器に対する抵抗感は、確かにあります。私たちのチームでは1980年代から障がい者・高齢者のアクセシビリティの問題にも取り組んでおり、高齢者にとって使いやすいタブレットやスマートフォンなどのデバイスやアプリの研究も進んでいます。しかし最も重要なのは心理的なバリアを解消するための「きっかけ」だと思います。たとえば孫とメッセージアプリでやりとりをする、遠く離れた家族とテレビ通話で話すなど、新しいコミュニケーションの方法を知り、実際に触れてみることで世界が変わるはずです。まだデジタル機器の使用を避けている人は、是非思い切って触ってみて欲しいと思っています。

 

「高齢化先進国」日本が世界に発信する、シニアが活躍する社会モデル

――IoTヘルスが普及した社会では医療に対する向き合い方が変わっていくのではないでしょうか。

高木 医療の観点では、おそらく、より「個人」が主体になっていくと考えられます。これはまだ先の話ですし疾患の種類にもよるのですが、IoTヘルスや遠隔医療の技術が進歩すれば、病院だけに限らない医療のあり方が模索されていくと考えています。その人が望むライフスタイルを継続しながらも、ITの力を借りて健康管理をし、手術などが必要でない限りは自宅で過ごしながら治療していくというように、個人が望むQOLを維持しながら医療を享受することができるようになると思います。

――そのためにクリアしなければならない課題はありますでしょうか。

高木 いくつかあるのですが、日本の場合は社会実装の難しさがあると思います。センサーによる見守り技術に対しては、「24時間カメラで見られ続けるということには抵抗がある」という声が挙がるのは当然のことです。もちろん、技術を開発する側としてその点は考慮しています。例えば深度センサー(3Dセンサー)なら録画用のカメラとは違い、対象の大まかな形しか捉えられず、自動車の衝突防止などに使われているミリメーターウェーブセンサーやレーザーセンサー(LiDAR)では重心の位置程度しか情報は得ることができません。他にも、加速度センサーでは人の動きだけしか分かりません。「鮮明な画像を撮られるのは嫌だけど、これくらいなら問題ない」という方は多くいらっしゃるのではないでしょうか。私たちは、このようなプライバシーに配慮した、センサーによるモニタリング技術開発にも力を入れています。

筑波大学との共同研究で行っている動作計測のイメージ(例)

筑波大学との共同研究で行っている動作計測のイメージ(例)

しかし、こうした新しい技術があることはあまり知られていません。これからは社会実装に向けて理解を求めることが重要だと認識しています。日本は世界の中で最も高齢化率が高く、それに伴うさまざまな課題をどのように乗り越えていくのか、世界が注目しています。他の国に遅れをとらず、世界をリードできる社会実装に向けて理解を得られるように、企業の側からも情報を発信していきたいと思います。

日本の高齢者は他の国に比べて定年後も働きたいという人が多く、実際に高齢者の就労率も高くなっています。「シニアが元気に活躍する高齢社会」として、日本は後続する他の国々のモデルとなれるはずです。そしてそのモデルを支えるべく、在宅で健康に、かつ高いQOLで生活を続けるためのIoTヘルスの技術は更に発展していくと思います。私たち研究者は「高齢化先進国」というフィールドを生かして、日本のみならず、将来的には世界の国々に活用できる技術を開発していきたいと考えています。

*注1:『Psych-E』 https://researcher.watson.ibm.com/researcher/view_group.php?id=7289

*注2:『CAir』 https://researcher.watson.ibm.com/researcher/view_group.php?id=10013

高木 啓伸
高木 啓伸
日本アイ・ビー・エム株式会社
東京基礎研究所 アクセシビリティ&ヘルスケア担当 シニア・マネージャー

1999年、日本IBM入社。東京基礎研究所においてWebアクセシビリティ、高齢者支援を中心とした研究開発に従事。2009年、情報処理学会喜安記念業績賞、2011年文部科学大臣表彰受賞。理学博士。