新しい量子シミュレーション・アルゴリズムを開発する東京大学とIBM

量子コンピューター

東京大学とIBM®の研究者は、凝縮系物質をシミュレートする巧妙なアルゴリズムを開発して、量子コンピューターの可能性を広げています。


 

東京大学は量子アルゴリズム設計において世界で最も重要な研究拠点の一つとして、日本を量子コンピューティングの世界的なリーダーにするのに貢献しています。

現在、量子コンピューティングで最も緊急性の高い研究の多くはアルゴリズム設計にあります。公開されているIBM量子コンピューターはすでに、古典スーパーコンピューターの能力の限界に達するようなワークロードを実行できる段階に達しており、なおも量子ハードウェアは年々改善しています。今、量子優位性の鍵はむしろ、そのような今ある量子コンピューターの能力を最大化する強力なアルゴリズムを開発することにあります。量子優位性とは量子コンピューターが古典コンピューター単独よりも正確、安価、あるいは効率的に計算を実行できるという状態を表します。

この目標に向けた重要な取り組みのいくつかは東京大学で行われています。東京大学の吉岡信行准教授と、IBMのPrincipal Research Scientist であるAntonio Mezzacapo、そして彼らの共同研究者たちは、現在量子コンピューティング分野で進行中の有望な研究の基盤となっている「クリロフ量子対角化(KQD)」のアルゴリズムを開発しました。

研究者たちが2025年6月にNature Communicationsの論文で発表したKQDは本質的に、系の基底状態を求める手法です。基底状態とは、何も外乱がない場合に系が安定する最もエネルギーが低い状態です。たとえば古典物理学の例として、ハーフパイプに置かれたボウリングのボールの基底状態は、ハーフパイプ底部での静止です。もしボールが動いていたり、ハーフパイプの縁でバランスを取っていたとしたら、それは励起状態です。

物理系の基底状態の計算は、特に量子効果で相互作用する多くの物体が関与する場合においては、強力なスーパーコンピューターを使ってもしばしば困難な問題となります。たとえば、鎖状に連なって相互作用している何百もの粒子からなる有機分子の基底状態を求めるのは容易ではありません。基底状態は、そういった系が実際にどのように振る舞うかについて科学者に重要な情報を与えてくれます。

今日の古典スーパーコンピューターはこの種の問題に多くの時間を費やしています。多体系の基底状態を計算するより良い方法がもしあれば、化学から高エネルギー物理学に至るまで幅広い分野で新たな研究の道を開く可能性があります。

KQDは、古典手法単独で可能である範囲を超えて複雑な系の基底状態を計算しようとする量子アルゴリズム開発の最近の成果の一部です。その他には、サンプルベース量子対角化(sample-based quantum diagonalization)やサンプルベース・クリロフ量子対角化(sample-based Krylov quantum diagonalization)があります。吉岡氏とその共同研究者の研究はすでにサンプルベース・クリロフ量子対角化(SKQD、sample-based Krylov quantum diagonalization)へと発展しており、これは量子優位性と産業応用の最も有望な分野の一つです。

なぜKQDのようなアルゴリズムは重要なのか

量子コンピューターを有用にしているのはアルゴリズムです。Paul Benioffが1980年の論文で量子力学モデルを用いた量子コンピューターを初めて説明した際、チップやハードウェアについては言及されていませんでした。Peter Shorが1994年に発表した有名な素因数分解のアルゴリズムや、Lov Groverが1996年に発表したいわゆるグローバーのアルゴリズムも、量子ビット数の実用的な限界を考慮に入れてはいない純粋に理論的なアルゴリズムでした。

しかし、これらのアルゴリズムこそが、その後数十年にわたるハードウェア開発のきっかけとなり、実用規模を持った今日の量子コンピューターの実現へとつながったのです。そして今日、量子コンピューターはすでに古典コンピューター単独を超えたレベルで実際の作業にも役立つ能力を持っていますが、そうはいってもまだ、その能力はグローバーやショアのアルゴリズムやその他の理論的アルゴリズムを大規模実行するにはまだ十分ではありません。したがって、量子コンピューティングがその潜在能力を発揮するためには、よく設計された新しいアルゴリズムが必要なのです。

量子コンピューターは古典コンピューターの能力を超えた問題を解決できるほどには成熟してきていますが、古典コンピューターにたとえるならばまだ20世紀半ばぐらいの初期段階にとどまっています。研究者たちは依然として量子コンピューターで解決可能な問題の全容を模索中であり、既存の量子ハードウェアと近い将来に利用可能になる予定の量子ハードウェアを最大限に活用できるアルゴリズムを開発しようとしています。

深い量子回路を実行して正確な計算結果を得ることができるフォールト・トレラント量子コンピューターの実現が近づいています。IBMは、そのような最初の量子コンピューターであるIBM Quantum Starlingを2029年までに提供する計画です。しかし、それ以前に現在の100量子ビット以上を持った量子コンピューターはすでに十分に高度で、価値ある結果を提供できる能力を持っています。今の課題は、巧妙なアルゴリズム設計によってその価値を実現することです。

IBM Quantum Heronプロセッサー

今、研究者たちが優れたアルゴリズムを開発するために行っている研究は、将来にStarling、そして最終的にはIBM Quantum Blue Jayによってより大規模で深い回路の実行が可能になっていくと、さらに対象を拡大し、規模が広がっていくことと考えられます。

「数千の誤り訂正量子ビットを実現する前の今の技術段階では、現在の計算資源レベルを用いて、チャレンジングな計算問題を解決できるアルゴリズムは非常に有用です」とIBM ResearchのQuantum Algorithms Centersディレクター、Hanhee Paikは述べています。

KQDとは

KQDは本質的に、量子コンピューターを用いて線形代数の問題を解く手法です。

線形代数は線形方程式の数学であり、行と列に数が並べられた行列を用いたベクトル操作を簡単化します。行列の対角化は、行列の重要な性質を表す数字が左上から右下へと対角線上を斜めに並ぶように変換します。これはある意味で、元の行列に含まれた情報を数学的に扱いやすく簡略化した表現です。

ある行列が現実世界の物理系を表している場合、その行列を対角化するとその系の基底状態を見つけることができます。

「私たちは対角化を使って幅広い物理系のエネルギー状態を計算します」と吉岡氏は言います。「物理学だけでなく、化学、数学、さらには機械学習の分野でも、対角化を用いて量子系の重要な特性を調査したいという場面はしばしばあります。」

数年前までは、系の基底状態を求める定番の量子手法は、変分量子固有ソルバー(VQE)と呼ばれるヒューリスティック手法でした。しかし、VQEはスケールさせるのが難しく、また、いつも問題の解が得られるわけではありませんでした。

研究者たちは線形代数問題を解くための良い量子手法を探し続けました。それには正当な理由があります。対角化は非常に複雑で多次元的な問題、例えば化学で大規模な分子のように複雑な多体物理系をシミュレートする際に生じる問題では極めて難しい処理になりますが、その結果には大きな価値があります。

1931年、ロシアの技術者で数学者のAleksey Krylovは、行列の重要な特徴を捉える部分空間(行列の一部)を巧みに構築することで、これをより速く、より簡単にする技術を開発しました。彼が提案するクリロフ部分空間を用い、行列についていくつかの控えめな仮定を加えることで、正しい結果に収束する計算が可能になります。

吉岡氏とMezzacapoは、常に解に「収束」する、より効率的で正確な代替案としてクリロフ法を検討しました。彼らのアプローチでは、クリロフ対角化をする上で古典では最も困難な部分であるクリロフ部分空間の生成の計算負荷を、量子コンピューターが引き受けます。量子ビットの時間発展には、古典的にクリロフ部分空間を生成するのに用いられる操作に類似した操作が伴うことが知られています。この手法では、クリロフ部分空間での数学的演算を量子ビットで表現し、それらの量子ビットを時間発展させることで、問題の正確な解を導きます。KQDは、高度なエラー緩和手法を組み合わせることで、VQEよりもはるかに良く、より正確な結果を提供できます。

吉岡氏とMezzacapoがKQDを開発しているのと同時期に、他の研究チームは量子コンピューター上で線形代数問題を解くためのサンプルベース量子対角化(SQD)という異なるアプローチを開発しました。KQDは凝縮系の問題に最適で、SQDは化学の問題に適しています。両手法とも、複雑系の基底状態を見つける上で量子コンピューターの能力を劇的に向上させました。

そして研究者たちはKQDとSQDを組み合わせてSKQDを作り出しました。SKQDは問題をクリロフ部分空間に分割し、それらの部分空間をサンプリングして迅速に解を見つけます。SKQDは近い将来に量子優位性を実現する最も有望な道の一つです。

東京大学が量子リーダーとなった方法

2020年、IBMと東京大学は日本の量子コンピューティングを推進するために提携しました。2021年、IBMは川崎市に東京大学用のIBM Quantum System Oneを導入しました。

東京大学のIBM Quantum System One 東京大学のIBM Quantum System One

東京大学は世界で最も創造的な研究者を数多く輩出している大学です。東京大学の研究者たちはIBMとの量子パートナーシップが生み出す機会を最大限に活用して、短期間で驚異的な成果を上げてきました。この記事執筆時点で、東京大学の研究者たちはIBMと共同で64本の量子論文を発表しています。

東京大学物理学教授でありIBM東大ラボ所長、そして量子コンピューティングについて学長への特別顧問である寺師弘二教授は、この協力が大学内外で量子コンピューティングへの関心を高めていると述べました。

それは社会的な強い関心を背景に、東京大学と日本政府が量子コンピューティングに早期に強いコミットメントを行った結果です。

「この成功は、両者がそれぞれ持ち寄っている独自の強みによって可能になりました。東京大学は深い理論的洞察と活気ある学術環境を提供し、IBMは先進的な量子ハードウェア、ソフトウェア、そしてグローバルな量子専門知識のネットワークへのアクセスを提供しています。基礎研究と実践的イノベーションが互いに強化し合うというダイナミックなエコシステムが、この協力によって築き上げられました」と、IBM Quantum Japanの責任者でありQCSCソフトウェア担当シニアマネージャーである堀井洋は語っています(QCSC:Quantum-centric supercomputing。量子中心のスーパーコンピューティング)。

スケーラブルな量子優位性の研究は、今日東京大学で行われています。
 


この記事は英語版IBM Researchブログ「How UTokyo and IBM developed a new quantum simulation algorithm」(2025年12月4日公開、Rafi Letzter著)を翻訳し一部更新したものです。

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監訳者

Toru Imai

Engagement Manager

IBM Quantum

立花 隆輝

東京基礎研究所 シニア・テクニカル・スタッフ・メンバー