量子コンピューターは激しい乱流のモデル化ができるか?

量子コンピューター

IBMの新しい研究は、微分方程式を量子高速化する可能性を示しています。


 

量子コンピューターは機械学習から創薬まで、さまざまなアプリケーションを加速させる可能性を秘めています。最近のエキサイティングなアルゴリズムの進歩によって、コンピューティングの最も困難な課題の一つである微分方程式の求解に新たな可能性がもたらされています。

時間とともに変化する量の動的性質を記述する微分方程式は、幅広い分野に応用されています。株式市場の追跡、流体の監視、核融合炉のプラズマ制御、そして生活に身近な天気予報もすべて微分方程式に依存しています。微分方程式は一つ解くだけでも難しいですが、現実の現象を説明するには想像を絶するほど多くの相互に関連する方程式が必要です。今これらの現象のシミュレーションに利用されている古典アルゴリズムは、計算コストの高い手段や、精度低下が起きてしまう近似に依存しています。それに対して量子アルゴリズムは、特定のデータ構造やある種の問題において、重要な指数関数的高速化を提供する可能性があります。

今年のQuantum Information Processing(QIP)会議でIBMの研究者たちは、量子情報科学や、量子誤り訂正、量子アルゴリズムの基礎などを探求する多数の論文を発表しました。これらの論文の中に、昨年初めて発表された、確率微分方程式の解を記述する関数を推定するために設計されたアルゴリズムがありました。これは、強非線形系、すなわちカオス的に振る舞う系を効率的にシミュレートできる初の量子アルゴリズムです。

その説明に入る前に、これまで私たちのブログには微分方程式の量子アルゴリズムに関する記事があまりありませんでしたので、次のような疑問にまず答えるのが適当かと思われます。微分方程式とは何か、そしてなぜ量子がそれらを解決できる可能性があるのか、です。

変化は難しい

「微分」という言葉を聞くと、数学の世界での話なのだと思うかもしれません。しかし、微分を見つけるということは、状況変化に応じて物事がどう変わるかを知ることに他なりません。私たちは微分に似た概念に毎日生活の中で触れています。例えば、通勤中の自分の位置が時間とともに変化するグラフをプロットして(そのグラフは、時間に対してのあなたの位置の「関数」と呼ぶことができます)、そのグラフを微分すると、あなたの速度を示す新しい関数になります。微分方程式とは、未知の関数があって、その未知の関数の微分について代数的な式が与えられている状況で、その未知の関数を求めることを目的とする方程式です。たとえば単純な微分方程式の例として、車のスタート位置と速度に関する情報をもとに、動く車の位置を時間とともに記述する関数を求めるという問題があります。

実際に微分方程式を必要とする問題は、これよりもはるかに難しいものです。道路上の車の代わりに、急流に揉まれる、おもちゃのボートの位置がどう変化していくか予測することを考えてみてください。この問題では場所ごとに、あるいは水分子ごとに、その動きを記述するそれぞれの関数があります。

今日、このような状況を正確にシミュレートする唯一の方法は、その空間にメッシュや格子点を重ねて、各点で微分方程式を解くことです。滑らかに流れる川は、数点の広い間隔で方程式を解くだけで済むかもしれません。しかし、数インチ先で水の流れが大きく変わるような乱流の川の場合には、はるかに多くのポイントが必要です。各点で多次元微分方程式を解く必要があるだけでなく、流れが乱れれば乱れるほど、各点で必要な方程式も増え、方程式も複雑になります。

残念ながら、私たちが現実世界でシミュレートしたい課題の多くは、この荒れ狂う川のような状態です。このような系は非線形性を持つと言われますが、高度に非線形な状況の問題を効率的に解く能力が得られれば、流体を説明する以上の価値をもたらす可能性があります。病気の拡散、生態系における捕食者と被食者の関係、株式市場、天候など、時間とともに変化する変数が存在する状況について、より効率的な微分方程式ソルバーが利用できれば、特に多くの恩恵が得られます。しかし、非線形微分方程式系を解くのはもちろん本当に難しい問題です。

最初の突破口:HHL

量子コンピューティングは、数十年前に最初の量子アルゴリズムが登場して以来、古典アルゴリズムだけでは到底及ばない問題解決の可能性を示してきました。しかし、2008年にAram W. HarrowAvinatan HassidimSeth Lloydが「HHL」アルゴリズムを発表すると、その影響は量子情報科学の枠を超えて幅広い研究者たちの注目を集めました。3人の研究者が研究していたのは線形方程式でした。線形方程式とは、N×Nの数字の行列 Aと、既知のN個の数字からなるベクトル bに対して、A x = bの関係を持つ、未知の数字 N個で構成されたベクトル xを求める問題です。これらの方程式は、古典手法で解こうとすると、計算時間が入力データのサイズに応じて急速に長くなってしまう難しい問題です。しかし、必ずしも正確な解の値そのものが必要とは限らず、代わりに、系を要約する特定の性質を抽出したいということもしばしばあります。適切に構造化された線形方程式の場合に、HHLアルゴリズムは特定の性質を指数関数的に速く求める方法となります。

HHLは量子アルゴリズムとしてこれ以上ないくらい直感的です。量子コンピューターは本質的に、ある種の線形代数演算を行う機械です。N個の量子ビットは2N要素を持つベクトルの情報を持つことができますが、量子演算はその列に対して2N×2N要素を持った行列をかけるのと等価です。ただし、量子ではそれらのベクトルや行列に保存できるデータの種類や、計算終了時に抽出できる情報量に制限があります。

詳細には触れませんが、HHLはこの量子コンピューターに固有の線形代数を利用し、既知のベクトル bを量子状態として表現し、そこに作用する一連の量子演算を作成します。ベクトルxについての情報を抽出するのに必要な数学的要素を作成するために、ベクトルbに施す一連の量子演算を、量子位相推定というツールを用いて行列Aを使って作り出します。HHL発表後、他の研究者たちは元のHHLアルゴリズムを改良・発展させ、微分方程式系を解く時に必要になるような、より一般的な線形系に適用可能で高速なアルゴリズムを開発してきました

HHLの元の形態には、今日の量子ハードウェアで使用できない制限があります。しかし、HHLはアルゴリズム研究分野全体を刺激し、微分方程式ソルバーを含む多くの新しい量子アルゴリズムの基盤となりました。研究者たちはまた、HHLや関連アルゴリズムでの指数関数的高速化に適した実用的問題の構造を探求しつつ、それらを実行できるほど大きな量子コンピューターの構築を目指しています。

新しいタイプのソルバー

今年初め、IBMの研究者たちはこの問題に異なるアプローチを取る新しいアルゴリズムを発見し、その結果、実用的な問題に応用できるかもしれない有望な指数関数的高速化の可能性を見出しました。

乱流流体の話に戻りますが、その前の研究では、グリッド上の各点に微分方程式を割り当てる代わりに、乱流を記述したデータに対して数学的変換を行い、乱流のない流体の微分方程式の新しい無限なリストを作成し、数学的手法でこの系を有限次元系に切り詰めて近似的な答えを導き出せることを示しました。しかし、それらのアルゴリズムは散逸が組み込まれている場合にのみ機能しました。つまり、流体が時間とともに熱損失や摩擦によってエネルギーを失う場合です。また、これはある程度非線形性を持った、つまり乱流の系でしかあてはまりませんでしたが、かといってあまり強い乱流は対象にしていませんでした。一方で、これまで既存のHHL拡張は強度に乱流である系の研究に利用可能ではありましたが、その計算量は指数関数的に拡大してしまうという問題がありました。

それに対してIBMチーム、すなわちSergey Bravyi、Robert Manson-Sawko、Mykhaylo ZayatsとSergiy Zhukによる新たな研究は、乱流流体力学に登場する基本モデルである確率的二次微分方程式をシミュレートする効率的な量子アルゴリズムを研究しています。彼らが答えようとした重要な問いは、そのアルゴリズムが系サイズや時間に対して効率的に(例えば多項式的に)スケーリングできるかどうかでした。チームは、システムが散逸性とノイズの両方を持つ場合、つまりたとえばホースをランダムに振るような、ランダムな外力やパルスが存在する場合に、これまでの結果とは大きく違い、強度に非線形な振る舞いを効率的にシミュレートできることを発見しました。

なぜノイズは助けになるのでしょうか?大まかに言えば、ノイズは「ミキシング」を誘発し、システムの細かいダイナミクスを滑らかにするからです。これにより、基盤となる挙動が非常に複雑であっても、量子コンピューター上で系をモデル化しやすくなります。

アルゴリズムのブレークスルーに加え、チームはこのアルゴリズムがBQP完全であることを証明しました。BQP完全であることは、量子優位性の重要なベンチマークになります。これが意味することを計算複雑性理論の観点から言えば、もし誰かがこの問題を効率的に解く古典アルゴリズムを設計できれば、量子コンピューターそのものも古典的にシミュレートできるということを意味します。したがって、量子コンピューターが古典コンピューターに対して本質的に計算上の優位性を持っている限り、BQP完全アルゴリズムは古典コンピューターでは効率的に処理できないものであると言えます。

チームは引き続きこの問題の研究を続けています。たとえば、この方法がより低いノイズレートでも機能するような問題の例はあるのか、という疑問に取り組んでいます。さらに、彼らは3次元におけるナビエ・ストークス方程式のような、現実世界の問題の研究を始めることに興奮しています。この方程式は計算流体力学や磁気流体力学(つまり核融合)の基盤となっています。3次元におけるこの方程式の「物理的に関連性のある」解の存在と一意性の確固たる理論的根拠は、数学におけるミレニアム懸賞問題の一つであって、理論保証のある量子優位性を持った量子アルゴリズムの設計に大きなチャレンジとなっています。

微分方程式はIBM Researchの中核的な研究分野であり、新しいアルゴリズムが実世界のユースケースに大きな利点をもたらす可能性を秘めています。この分野の研究は、量子アルゴリズムの研究と、今日の既存アルゴリズムにマップできるユースケースを求める作業に重要な意味を持っています。


 

この記事は英語版IBM Researchブログ「Can quantum computers model nature’s most turbulent systems?」(2026年1月24日公開、Ryan Mandelbaum著)を翻訳し一部更新したものです。

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監訳者

立花 隆輝

東京基礎研究所 シニア・テクニカル・スタッフ・メンバー