IBM®、ケルン大学、ハーバード大学の著者らがNature Physics誌に発表した共著論文は、測定型量子計算プロトコルの量子計算研究における価値を明らかにしています。
通常、量子回路を使用して量子状態をシミュレートする場合、初期化した量子状態をユニタリ演算子(量子論理ゲート)によって時間発展させます。そして回路の最後に到達したら測定をして量子状態を古典状態に落とし込んで、シミュレーション結果として情報を得ます。常にとは言えなくても少なくともこれはしばしば使われる一つの方法だと言えます。
近年、測定を、量子状態から情報を抽出する方法として使うだけでなく、時間とともに変化する量子状態を操作するためにも利用する量子アルゴリズムの研究が盛んになってきています。これは、量子情報処理の重要なタスクである量子もつれの生成に関して特に役立ちます。ユニタリ回路のみを用いて量子もつれ生成を行うと回路が深くなり、現在のハードウェアの能力を超えたものになってしまうことがあるのに対して、測定を組み込んだ量子回路の方がはるかに効率的になることがあります。例えば、中間回路測定を用いた動的回路によって演算を実行する方式です。
最近のブログ記事で、同一超伝導量子プロセッサー内にはあるが接続されてはいない二つの量子ビットをもつれさせたり、異なる量子プロセッサー上にある量子ビットをもつれさせたりするのに、測定を用いた効率的な方法が動的回路の利用で可能になることをそれぞれ紹介しました。最近、Nature Physicsに掲載された論文は、測定型量子計算プロトコルがもたらす更なる潜在能力を紹介し、それが物性物理学や量子エラー訂正などの分野の進歩を支える可能性を指摘しています。
この論文では、IBM、ケルン大学、ハーバード大学の研究者が、測定型量子計算プロトコルを用いて、シンプルな長距離秩序状態、つまり、システム内でかなりの距離を隔てて量子もつれが維持された量子状態を効率的に生成する方法を実証しています。特に重要なのは、これをユーティリティー・スケール(実用規模)の実験で実現できたことです。すなわち、最大規模の実験ではIBM Quantum™ Eagleプロセッサー上で補助系も含めて合計125量子ビットを使用して、54個の量子ビットについて長距離の秩序状態を構築することができました。
そして、量子回路におけるコヒーレント・エラーとインコヒーレント・エラーの確率の両方を調整することにより、2次元平面における長距離秩序状態を西森転移として知られる臨界点まで維持することが可能であることを示しています。さらには、古典デコーダーを使用して、長距離秩序状態の存在を確認しています。従来は、量子コンピューターには測定エラーがあるため、量子回路でこの種の長距離秩序状態を実際に作成し検証できるのかは分かっていませんでした。
以下では実験の詳細を掘り下げ、ケルン大学とハーバード大学の研究者と共同で開発したプロトコルが、物性物理学やその他の物理学研究分野に関連した物質のさまざまな相の量子シミュレーションをどのようにして大幅に強化できるかを示します。またこれらの新しい方法が、量子情報自体の性質に関する興味深い洞察を得るのに有用であることも説明します。
自分で西森相転移を実現することに興味がありますか?IBM Quantum Learningのチュートリアルに従って、IBM Quantumプロセッサーで実験を再現することができます 。
私たちの実験では、無秩序な量子状態が長距離秩序状態に変化する「相転移」のシミュレーションに取り組みました。特に、量子系における長距離秩序状態の最も単純な例であり、十分に研究されている数少ない大規模なもつれ量子状態の一つであるGreenberger-Horne-Zeilinger(GHZ)状態の実現を目的としました。GHZ状態はランダム結合イジングモデルの基底状態と考えることもできます。これは物理学研究で広く使用される簡易的な磁性体のモデルであり、2023年の IBM Quantumユーティリティー実験で対象モデルとして扱われたモデルでもあります。
ユーティリティー実験は、スピンが、スピンの方向に垂直な磁場と相互作用するという、横磁場イジングモデルを扱っていました。一方、今回の実験は、ランダム結合イジングモデルを主題にしていますが、そこでは隣接するスピン間の相互作用強度のばらつきにより、スピン系が無秩序な状態で存在する傾向があります。
ところで、相転移とは何でしょうか?たとえば、皆さんもご存知の、氷が溶けて水になる現象がその一例です。水分子が融解温度に達すると、それらは個体である氷の結晶構造に留まるのか、それとも液体の水としての混沌とした状態に移るのか、どっちつかずの一種の中間状態に入ります。この、氷が液体の水に変わる変化が相転移です。
GHZ状態の長距離秩序状態から無秩序状態へ、そしてその逆への相転移をシミュレートすることは、氷を取り出して溶かし、そして次に再び凍らせるようなものです。ただしGHZ状態は水分子ではなく、「スピン」で構成されています。イジングモデル系ではスピンは、グリッド状に並んだ原子サイズの磁石、あるいは他のスピンと共に大きな磁性材料を構成する「格子」と考えることができます。スピンは、上向きまたは下向きのいずれかの方向を持ちます。
物理学者は、格子内のスピンがすべて整列したいのか、それともすべてランダムになりたいのかという問題にしばしば興味を持っています。1970年代、理論物理学者の西森秀稔は、今回の実験で使用されたランダム結合イジングモデルのようなスピングラス・モデルで、今日では西森線として知られる秩序状態から無秩序状態への遷移を見出しました。西森線を図示したグラフは、原文ブログをご参照ください。
スピングラスとは? スピングラスは、物性物理学で研究されている一種の磁気状態です。これは、系内の個々のスピン間のランダムな相互作用と無秩序状態によって特徴づけられます。
長距離秩序のある系とは、その名から想像される通り、上向き状態か下向き状態のいずれかですべてのスピンが揃っている系です。系の温度や無秩序性を上げると、系は西森線の経路をたどりながら、長距離の秩序相から無秩序相に押し上げられます。原文ブログにあるグラフにおいて青色でマークされている長距離秩序と無秩序の間の交叉点は、西森転移または西森「臨界」として知られています。グラフの下部にマークされている赤い点がGHZ状態です。
現実の磁性材料で、真に長距離の秩序状態を作り出すためには、材料の原子スケールの特性をそれぞれ能動的に調整する必要があり、私たちが知る限り、これは不可能です。実際の磁石には常に小さな欠陥があり、スピンが系の他の部分と揃っていない原子が存在します。しかし、Nature Physicsの実験では、IBM量子コンピューターの量子ビットを使用して、格子内のスピン間の相互作用をシミュレートし、格子内の個々の磁石を動的に調整して、無秩序状態と長距離秩序状態の間の相転移を実現できることを示しました。
この実験以前は、測定エラーが存在する状態でこのような調整が可能かどうかは不明でした。私たちの研究は、熱を加えて水を沸騰させるのと同じように、量子ビットのスピンの自由度を制御可能な方法で操作することが可能であることを示しており、この相転移の量子コンピューターでの実装には本質的にノイズが含まれていたにもかかわらず、制御可能だということを示しました。
シミュレーション実験は、127量子ビットのIBM Quantum Eagleプロセッサーであるibm_sherbrookeで実行しました。測定を用いたプロトコルでGHZ状態を作成するには、まずプロセッサーの量子ビットを、GHZ状態を構成するシステム量子ビットと、GHZ状態の準備と測定に使う補助量子ビットの2種に分類します。
ここで補助量子ビットは、二つのシステム量子ビットが直接隣接しないように、システム量子ビットの間に配置されています。ここで、各量子ビットを最も近い量子ビットに接続する物理的な接続も三つのグループに分けられます。この分類は、回路プロトコルの実行に重要になります。
このプロトコルは、すべての量子ビットが基底状態に初期化されたところから始まります。もしエラーのない完璧な世界であれば、補助量子ビットや中間回路測定をまったく使用せずにGHZ状態を作成できます。システム量子ビットを初期化し、純粋にユニタリな 2量子ビットのもつれゲートを使用して隣接する量子ビットの各ペアをもつれさせ、この単純な回路の最後に量子ビットを測定して、目的の長距離秩序状態を確認するだけです。
もちろん、私たちはそのような完璧な世界に住んでいるわけではありません。ゲート・エラー、測定エラー、そしてその他の種類のエラーが、システムの長距離秩序を壊したり、長距離秩序状態が達成されているかどうかを確認したりするのを困難にします。そこで補助量子ビットが重要になります。その役割をよりよく理解するために、プロセッサー内の小さな一部に注目してみましょう。そこでは二つのシステム量子ビットがその間の補助量子ビットで接続されています。
このプロトコルではまず、それぞれの量子ビットに別々のアダマールゲートを適用し、三つの量子ビットすべてをそれぞれ独立な重ね合わせ状態にして準備することから始めます。私たちの目標は、2量子ビット・ゲートを用いて、二つの量子ビットをもつれさせることです。しかし、超伝導量子プロセッサーでは、直接隣接する量子ビットのペアにしか2量子ビット・ゲートは適用できないのですが、今回の場合、システム量子ビットの間に補助量子ビットがあります。二つのシステム量子ビットを接続するには、シンプルな量子テレポーテーション実験を行う必要があります。
まず、局所的なユニタリ2量子ビット・ゲートを使用して、システム量子ビットのそれぞれを補助量子ビットともつれさせます。この時点で、三つの量子ビットすべてが強くもつれた状態になりますが、もつれあわせたいのは二つのシステム量子ビットだけです。そこで、補助量子ビットに別のアダマールゲートを適用し、測定することで二つのシステム量子ビット間に最大もつれ状態であるBellペアを作成します。
この小さな 3量子ビットに対する処理例は、すべてのシステム量子ビットに拡張することができて、すべてのシステム量子ビットとその間にある補助量子ビットに対して同じ量子もつれ操作を実行できます。具体的には、3グループに分けられた物理的な接続のうち、1グループずつ順番に2量子ビット・ゲートをすべて同時に適用します。この方法を使えば、回路の深さを一定に保ち、不必要な複雑化を回避することができます。また、補助量子ビットが量子もつれを仲介する形で、すべてのシステム量子ビットにわたる巨視的なGHZ状態が作成できるというわけです。
このことから、二つの重要な疑問が浮かび上がってきます。
最初の質問に答えるのに必要な処理は、すべての補助量子ビットを射影測定し、それらの測定結果を古典コンピューター上の関数に入力することです。そうすることで残りのシステム量子ビットの状態をデコードできます。この古典デコーダーは、システム量子ビットがGHZ状態の長距離秩序状態を達成したことを検証するのに役立ちます。
この無秩序状態から秩序状態への相転移の性質を調べるのには、回路にエラーを手動で挿入するのが有効です。これには、量子ビット間の相互作用を歪めるコヒーレント・エラーと、量子コンピューターと古典デコーダーの間の通信チャネルに対するインコヒーレント・エラーがあります。これらを用いることで、無秩序性の増減に対して、量子状態がどのように変化するかを観察できます。全系のペアワイズ相関の巨視的な振る舞いから、両方のタイプのエラーを注入することによって、量子状態が西森線と同じ経路をたどることを明らかにできます。
この研究は、量子コンピューター上で無秩序状態と長距離秩序状態の間の相転移を作成および操作することが可能であることを示すだけでなく、それを大規模で実行可能であることを示しています。最大の実験では、125量子ビットの中に最大54スピンをシミュレートしています。私たちの理論研究は、このプロトコルがIBM Quantum Condorプロセッサーのような、より大きなデバイスを使用して1,121量子ビットまで拡大することも可能であると示しています。
このシミュレーション実験は本質的に、量子コンピューターが物性物理学の研究にもたらすことができる影響を表す強力な例であると言えます。この研究は、量子ハードウェアのエラーを操作して、量子系の長距離秩序状態を制御できることを示す最初の成果です。
私たちのシミュレーションが扱っているのが、磁性学でも重要なモデルであるランダム結合イジングモデルであることを考慮すれば、これは現実世界の磁性材料の理解に重要な意味を持ちうると言うことができます。現実の磁性材料で原子構造に欠陥が存在するにもかかわらず磁気効果が保たれていることについて洞察が得られるかもしれません。
磁石はテクノロジーで広く利用されているので、磁性学は物理学において重要な分野です。私たちはスマートフォンやハードディスク、MRI医療スキャンなどで磁気を利用していますが、これらは全体のほんの一部にすぎません。磁気についての理解を深めることは、コンピューター・チップを作るための半導体処理を進歩させるためにも不可欠です。
さらに、この研究は、量子情報の理解にとって、より根本的な重要性を持つ可能性もあります。 2000年代初頭、カリフォルニア工科大学の理論研究者たちは、ランダム結合イジングモデルと量子誤り訂正符号との間に深い関連性があることをつきとめました。当時、実用的な量子誤り訂正がいずれ達成できるかどうかは、今日よりもはるかに物議を醸す疑問でした。
カリフォルニア工科大学の研究者たちは、量子エラーをスピンとランダム結合イジングモデルの相互作用にマッピングすることで、ちょうど磁性の無秩序性が長距離秩序状態を必ずしも破綻させないのと同様に、少量の量子エラーが量子情報に破壊的な悪影響を及ぼさないことを厳密に証明しました。この関連性を通じて、彼らは量子コンピューターが実際にある程度のエラーを許容できることを立証しました。
もう一つの興味深いポイントは、量子情報が必ずしも量子的な性質だけを持つわけではないという、単純ではありますがおそらく直感に反する事実です。量子情報は古典情報と共存することができます。私たちの実験では、射影測定された補助量子ビットから情報を得るために古典デコーダーを使用し、その古典情報を使用して、隠されていた量子情報を回復しました。これは、少なくともいくつかのケースでは、量子情報をうまく処理するために古典情報も処理しなければならないことがあることを示しています。
このことは、観察者効果などの基礎的な概念を含めて量子情報科学を学ぶ者にとっては、培ってきた初歩的な直感に一部反するものです。観察者効果とは、量子状態を観察または測定する行為が、状態の量子情報を古典情報に落とし込むという現象です。この概念は、有名なシュレーディンガーの猫の思考実験、すなわち、放射性同位元素の入った箱に閉じ込められた猫が、観察者が箱の中を見るまで「生きている」と「死んでいる」という重ね合わせ状態で存在するという寓話でよく紹介されます。ここでは観察という行為が、猫の状態を2つの古典的な選択肢のうちの一つに決定します。
しかし、自然はもう少し複雑です。この研究は、現実の世界では、内部を垣間見たい量子状態がある時、測定によってその状態の一部を崩壊させ、その測定から収集した古典情報を使用して、まだ直接測定されていない量子情報について何かを知ることができるということを示しています。このような測定を用いた実験プロトコルは、量子プロセッサーを用いた物性物理学的現象を研究するアルゴリズムの開発に重要な役割を果たす可能性があります。
この実験の詳細については、Nature Physicsに掲載された論文をご参照ください。実験を自分で再現する方法については、IBM Quantum Learningのチュートリアルをご覧ください。
この記事は英語版IBM Researchブログ「Melting magnets with utility-scale quantum simulation: Researchers explore condensed-matter physics phenomena」(2025年2月12日公開、Edward H. Chen、Robert Davis著)を翻訳し一部更新したものです。
金澤 直輝
IBM Quantum, リサーチ・サイエンティスト
立花 隆輝
東京基礎研究所 シニア・テクニカル・スタッフ・メンバー