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THINK Business

「AI電子カルテ」が私たちとともに考える――超高齢化社会に向けた未来の医療とは

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鈴木 進 氏

鈴木 進 氏
日本アイ・ビー・エム株式会社
グローバル・ビジネス・サービス事業本部
デジタル・ニューワールド推進事業部
ヘルスケア担当部長/アソシエート・パートナー


病院における医師オーダーシステム、看護システム、会計システム、そして電子カルテシステムの黎明期から設計開発に従事。その後プロジェクトマネージャー、統括責任者として、大規模医療機関の基幹情報システム導入、医療系研究プロジェクト、研究センターの新規開設プロジェクトなど、ヘルスケアシステムに関連する各種事業を多数担当。ヘルスケア・ソリューションの責任者を経て、現在はヘルスケアを軸とした産業横断サービスの推進に取り組んでいる。

従来から超高齢化社会に向けた課題の一つとして議論されてきた、医療・介護業界の構造的な人手不足。新型コロナウイルス感染症(COVID-19/以下、新型コロナウイルス)の影響下においても、その課題があらためて浮き彫りになった。医療従事者=“人”に全面的に頼らざるを得ない現在の臨床の体制では、医療崩壊が起きかねないのだ。

この問題解決の一端を担うべく、数年前から日本アイ・ビー・エム(以下、IBM)が臨床への導入を模索しているのが「AI電子カルテ」だ。そのコンセプトは「IBM Future Design Lab.」において、医療情報・医療AIの第一人者である、東京大学大学院の大江和彦教授のインタビューでも紹介されている。同氏にお話しを伺ったのが、IBMで医療業界コンサルタントとして活躍する鈴木進氏だ。本稿では、鈴木氏に医療業界におけるテクノロジーの役割や展望を聞いた。

IBM Future Design Lab.
〜各界のリーダーとともに未来を考え、知見を発信〜

IBM Future Design Lab.は、未来を洞察し、テクノロジーを活用して社会を共創していくために2020年に活動を開始した。

第一弾として同年秋に、ニューノーマルで加速する“繋がる社会”——Thought Leaderに求められる視点 と題して、テクノロジーと社会について論点を提起。

今回のシリーズでは、各業界の有識者との対話を通して、未来を見据え、時に業界の枠を超えて社会課題の解決につながる知見や活動を紹介する。

ITテクノロジーの活用で医療崩壊を防ぐ

——IBM Future Design Lab. では医療の未来についても考察されています。新型コロナウイルスとの戦いの最前線にある医療は目下、医療崩壊が懸念されていますが、その点を踏まえて現在の動向について教えてください。

対新型コロナウイルスの医療現場において、医療は“人”であることがあらためて浮き彫りになったと思います。病床数や医療機器などの設備不足も重要な課題ですが、設備は使いこなせる医師や看護師がいて初めて成り立つものであり、臨床は医療従事者が直接行うものです。つまり、人がいないと医療そのものが成り立たたないことが、世間に再認識されたと思います。

私たちテクノロジー企業は、これまでも人を前提に——医師や看護師をはじめとした医療従事者の仕事を理解して——現場に沿ったシステムをご提供する形で医療業界を支え協業してきました。ですが、それだけでは不十分だということをコロナ禍により認識せざるを得ませんでした。医師や看護師が行う医療をデジタルサービスがサポートすることで、従事者の負担を下げつつ医療の質を向上させることを、医療業界と一緒にこれまで以上に取り組む必要性を感じています。

——医療業界をテクノロジーでアップデートするということでしょうか。

はい。ただ、コロナ禍で医療が大きな注目を浴びましたが、問題の本質は以前から変わっていません。2025年問題と言われる、後期高齢者(75歳以上)が急増して医療・介護を取りまくさまざまな事情に影響を及ぼす「超高齢化社会」は必ず訪れます。何もしなければその時に医療が崩壊するだろうとの懸念は、元よりあったのです。

そのために、私たちのような企業も医療機関と協力して、電子カルテやレセプトのデータといった診療行為にもとづき得られる匿名化されたデータ「リアルワールドデータ」を活用するアプローチなどで、解決策を模索してきました。

そのようなアプローチにおいては、データが示す概念が統一化され、かつ信頼がおけることが重要です。活用が見込まれるAIにしてもIoTにしても燃料となる大量の正確なデータが必要で、そのためのデータ整備を行っています。現在はここの段階にあると言えるでしょう。

その一方で、すでに使える状態で蓄積されているデータも少なくありません。そのデータをどう活用するかという観点も取り入れながら、臨床環境を作り上げていく必要もあります。IBMはその一環として「AI電子カルテ」に取り組んでいます。

医師と一緒にコンピューターも考える、AI電子カルテの取り組み

——IBM Future Design Lab.でご紹介した「AI電子カルテ」について教えてください。

対談させていただいた大江教授は、医療情報の標準化に尽力されてきた、この分野の第一人者です。これまでの電子カルテは、紙のカルテを単にデジタルに置き換えただけでした。臨床現場において、医師が症状や診断病名を書き、データで保管するといったものです。つまり、診察や病名の判断などは全て医師のスキル内で行われ、電子カルテは入力されたものをそのまま記録するだけです。

一方、AI電子カルテはコンピューターが自身の知識を使って医師をサポートするものです。たとえば「喉が痛い」「鼻が出る」などの情報を与えることで、この領域の疾患を疑っておいた方がいいといった示唆を返してくれます。患者さんが「睡眠薬を飲んでいる」という情報を与えれば不眠症であることを理解し、「うつ症状があるかもしれない」と示してくれるのです。その程度のレベルであれば、キャリアのある医師ならすぐに想像できるでしょう。しかし、日常的に扱わない専門外の疾患や、日本に数例しかないような珍しい疾患だった場合であっても、コンピューターに知識さえあれば示唆が返ってくるため、見逃しを抑止するために非常に役立つと考えられます。

——今後、AI電子カルテはどのように実用化されていくのでしょうか。

AI電子カルテの運用においては、その元となるリアルワールドデータの整備が重要で、そのためには医療データの標準化が必須です。日本でも医療情報のリーダーの方々がデータ標準化に尽力され、近年では病名や医薬品など主要な診療データについてはほぼ標準的に取り扱うことが可能になりました。標準化することでコンピューターがより正確に症状を理解できるようになり、正しい治療法などへと辿り着けるようになるのです。

医師や看護師に対して、着想した疾患、検査、治療などの情報をともに考え、情報を連鎖させて関係する情報を手元に準備する、という機能は、これからの医療システムに実装されてくると考えられます。もちろん、それはあくまでも、あふれる仕事をかかえる医師や看護師を支援するものであり、とって変わるものではありません。AIならではの課題もありますが、一つ一つ解決されていくでしょう。

医療へのコンピューター活用により、患者にもたらされるもの

——臨床にコンピューターの活用がなされることで、患者にはどのようなメリットが考えられるのでしょうか。

メリットは多様です。たとえば大きな手術を考えてみてください。患者の立場からすると非常に不安でしょうし、だからこそ医師に多くの説明を求めるでしょう。とはいえ、実際の現場で医師に許された時間は短く、患者にとって満足のいくインフォームド・コンセントがなされるとは限りません。しかし、コンピューターなら何時間でも疲れることなく説明に応じます。わざわざ医師に聞くことでもないと思われる些細なことや聞きづらいことも、難しい病名も覚えにくい薬の名前も、コンピューター相手であれば気兼ねなく聞くことができます。

デジタル情報が利用できるので、ご自身の身体や健康を管理しやすい環境につながるでしょう。たとえば、飲酒量は多いけれど隔日で10km走っているという人は、「自分は健康」と思い込んでしまいがちですが、「コンスタントに走れる身体=健康」ではありません。元気に走って少しみぞおちが痛い、となったときに、もしかしたら消化器系に負担がかかっているのではと、コンピューターなら遠慮なくささやきます。病気になってから病院に行くという現在の保険医療において、このような方がわざわざ予防的に病院に行くことは稀で、現実的には何らかの不調が出てから病院にいくことになります。しかし、ささやいてきたコンピューターに気軽に消化器の状態のことを相談できるようになればどうでしょうか。将来的には、ちょっとした不調などは、まずコンピューターによる診察を仰ぐことが可能になるといいですよね。

——そのためには、私たち自身が自分のデータを管理する必要が生じると推察されます。

そうですね。年に一度の健康診断や病院で診察を受けた時だけ身体の状態を知るというような、断続的なデータにその時々でアクセスする現在の環境ではなく、継続性をもったデータに常時アクセスできる環境を持てるようになると思います。つまり患者自身がデータを管理する。そうなるとさまざまな課題が浮かんできます。適切なセキュリティー要件をクリアに定義することは難しいですし、知らなくてもいい情報に無防備にさらされることも考えられます。

それらを踏まえ、医療業界では、医療機関によって管理されている医療データのあり方を少しずつ変えようという動きがでています。たとえば、健康・医療データを保存するための専用のリポジトリをクラウド上に用意し、かかりつけの病院で受けた診察結果などが全てそこで管理されるといったことが考えられます。旅行先で怪我をした、病気になった時でも、当地の医師がかかりつけ医と同じ情報を見て診察を行うことなどが可能になるでしょう。

——医療そのもののあり方も変わるのでしょうか。

その可能性が十分考えられます。AIは大量の教師データを取り込むことで知識を豊かにしていきますが、最近ではデータの数が多くなくても学習できる仕組みもでてきました。患者や医療従事者がコンピューターの知識をより幅広く活用できるようになれば、病院の役割は変化して、深刻な症状や次の診療ステップに進む時の相談など、より高度で丁寧な医療に専念することができるようになると思います。

ですが一方で、どんなにコンピューターの知識が膨大であるとわかっていても、患者は医師という“人”に診てもらいたいと思うでしょう。つまり、コンピューターが言うことではなく、医師の言葉を聞きたいのです。AIはあくまで医師の道具となり、医師はその道具を使って診察の精度を上げたり、負荷を軽減したりするといった医療の姿になると思います。

お客様の課題を解決するインダストリー・コンサルタントとして

——鈴木さんは現在、IBMにて医療業界担当のコンサルタントとして活躍されていると伺っています。仕事の面白さはどこにあるのでしょうか。

IBMは常に変化する会社で、私が入社した時代にコンサルティング事業はなく、OSとハードウェアを提供する企業でした。ただし掲げるミッションは現在と変わらず「テクノロジーでお客様の課題を解決する」ことであり、当時はその手段がハードウェアだったということです。現在は、その手段がハイブリッドクラウドやAI、あるいは量子コンピューテングと、それらを活用したお客様の課題解決になっています。

私の今の業務を鑑みると、医療業界に精通しなければなりません。医療従事者や医療機関の課題を解決するわけですから、医学についてもある程度の話ができることが求められます。ある医学的な話題において医師の表情がふと変わったとしたら、そこ察知してこちらもその変化の真意が推察できないといけない——。インダストリー・コンサルタントは、担当領域を深く知るために学ぶことを続けます。

そしてこれからは、AIなどのテクノロジーを使って、その領域の知識を使ってお客様の課題をどう解決していけるのかを考えなければならない。お客様とのディスカッションを通じて、テクノロジーの観点でこちらが考えていることを伝え、さまざまなヒントを得て再び考えます。そうすると答えが少し見えてきます。その繰り返しですね。

医療や行政の方々と接していますが、トッププレイヤーや業界をリードする人であることも多く、価値ある興味深いお話を個別に伺うことができるのは本当にありがたいことだと感謝しています。そしてこちらが本気で考え、接していることがわかると、リーダーの方々も考えてくださり、必ず相応の答えを返してくださいます。だから面白いですし、考えることを続けられるのだと思います。

医療業界の未来は、業界の枠を超えたつながりにある

——医療業界は今後どのように変化していくとお考えですか。

今回、医療業界のお話を紹介していますが、今後の方向性としては、業界の枠や壁を取り払って社会全体として変化を遂げていく必要があると考えています。

たとえば医療の観点では、「熱っぽい、寒気がする」となって初めて体温を測って薬を飲んだり病院に行ったりすることを考えるのですが、実際にはその症状が出る前にやるべきことがある。免疫力を上げるために栄養のあるものを食べる、疲れたらリラックスして休む、寒波の予報があれば暖かいものを着るといったシンプルなことです。

家族や自治体・地域のコミュニティといった身近なところから、食品業界や衣料業界などの産業にいたるまで、さまざまなアプローチで取り組むことで、より自然なサービスになっていくと考えられます。とはいえ、現在の医療サービスという見地から見た場合、「熱っぽい、寒気がする」といった症状と他業界のサービスをつなげるような仕組みはありません。そこで、業界を横断した医療につながる患者中心のプラットフォームを実現すれば、医療を見据えてスープやブランケットを提供することが可能になります。私たちが目指す世界はここです。冒頭で述べた医療崩壊の解決のヒントになるでしょう。

そうした新しいサービスは、少なくとも技術的には可能で、デジタル・プラットフォームも特定の企業が囲い込む形から、エコシステム全体で取り組もうという動きになっています。そのつながりは、少しずつ始まっていて未来はとても明るく、開けていると思います。私は医療の観点で考え、他のインダストリーのチームもそれぞれの立場から考える。これからの社会が目指す姿をしっかりと描いて、各業界や企業、行政のリーダーの皆様に提案をさせていただき、実現に向けてともに進んでいきたいです。