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THINK Business

業界初の「Web選挙調査表システム」——まだ見ぬイノベーションをアジャイルで実現

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兼上徳之(左)
朝日新聞社 大阪本社編集局 選挙事務局

岩本和樹(右)
朝日新聞社 情報技術本部 開発部 次長
(部署名、肩書きは取材当時)

インターネットやSNSの普及によって、社会のデジタル化が進んでいる。記者が足で現場を回って取材し、記事を書く労働集約型産業である新聞社も、情報技術の進歩に伴い、質の高い報道を維持するために変革の必要に迫られてきた。朝日新聞社の選挙取材にもそんなデジタル化の波が押し寄せている。
2019年、同社は選挙報道の質を維持・向上するために、候補者情報を収集・発信するための「Web選挙調査表システム(以下、ESシステム)」を開発した。選挙業務にはどんな変革が必要だったのか。パートナーとして選定した日本アイ・ビー・エム(以下、IBM)と共に、どのようにその変革を進め、解決策を導いたのか。朝日新聞社の兼上氏、岩本氏に聞いた。

従来の取材スタイルの限界や人員減と、報道の質を両立させるための改革が求められる

——テクノロジーの進化によって、メディアやジャーナリズムにおいても多様化の波が広がり、新聞に求められる役割も変化していると思います。そのようなデジタル社会において、朝日新聞社はどのように変わってきているのでしょうか。

兼上 朝日新聞は2019年1月に創刊140周年を迎えました。これまでも大なり小なりの変化は遂げてきましたが、デジタル社会の進展に伴い、メディアの世界自体が大きく変化しています。新聞社はもともと記者が足で現場を回って取材し、記事を書くというアナログなスタイルであり、職種のデパートといわれるほど多様な職種が集まる労働集約型のビジネスです。しかし、メディアが多様化して新聞離れが加速する中、これまでと同じやり方を続けていては、質の高い報道を保つことが難しくなりました。

特に私が担当している選挙報道分野では、有権者の判断の一助になる情報を正確に発信しなくてはなりません。また、候補者の主張は有権者になかなか伝わりにくいので、デジタルを活用した新しい取り組みを進めてきました。たとえば2013年の参院選において「朝日新聞デジタル」で展開した「朝日新聞ボートマッチ お試しマイ候補」は、さまざまな政策に対して自分の考えを回答すれば、立ち位置が近い候補者を選び出す機能です。

ですが、そうした中で大きな課題は、やはり人手不足です。新しいメディアを目指す人も増え、今までの手法で正確な選挙報道を続けることは、新聞業界自体の課題となっています。

岩本 そこで、社内でも持続的に成長するためのイノベーションや、具体的な解決策としてデジタルトランスフォーメーション(以下、DX)の必要性が叫ばれるようになりました。さまざまな課題がありますが、これからも従来以上の質の高い報道を維持するために、今回は選挙分野において新しいイノベーションに挑戦することになったのです。

 

候補者情報の収集は「紙」と「足で稼ぐ取材」が基本

——具体的に、これまでの選挙報道ではどのような課題があったのでしょうか。

兼上 国政選挙、地方選挙を問わず、選挙報道には候補者の情報を正しく伝えることが何よりも優先します。そこで当社は、候補者に対し、「選挙調査表用紙」を配布して必要事項を書き込んでもらい、それを集約して候補者情報の紙面づくりを行なってきました。

記者は基本的に「取材対象者に会いに行く」ことが重要なので、用紙は立候補予定者の事務所に行って渡し、回収もします。メールやFAXでの回収は誤送信のリスクもあるので、選挙報道には必要なコストだったのです。

しかし、この作業は各選挙区の全立候補予定者が対象となるので、記者の人数が少ない総局では、日常の取材活動の時間を割かれるという課題も抱えていました。参議院の通常選挙は3年ごとに行われるため、早めに調査表を渡すなどで対応できますが、衆議院の総選挙はいつ解散になるかわからず、十分な準備の時間が取れないこともあります。

また候補者側も、複数の新聞社から同様の調査表に同じ回答を何度も要求されるので負担になっていました。「記者クラブ加盟社で集約してほしい」などの要望もありますが、調査表の内容は各社で微妙に異なっているため、特に国政選挙では一本化していません。

——というと、これまで選挙調査表においてデジタル化は未着手だったのでしょうか。

岩本 当社だけでなく、どの新聞社も「選挙調査表のデジタル化」には本格的には着手していないと思います。人海戦術にも限界が来ており、統一地方選挙などでは各新聞社やテレビ局が分担して選挙調査表の配布・収集を行うこともあります。しかし、根本的な解決には至らないため、今回新たにESシステムの着手に取り組むことになりました。先例のないことであり、どのようなシステムが正解なのかわからず、大変難しいプロジェクトとなりました。

 

構想はあっても正解が見えないシステム作りをIBMがサポート

——そうした難しい取り組みの中、具体的にどのような形で機能要件から開発まで進めていったのでしょうか。

兼上 当初から「Web 上でのアンケート形式」というアイデアはありましたが、紙面づくりに生かすためには、その後の業務も考慮する必要があります。たとえば候補者からの回答内容の点検は、これまで記者個人のやり方やスキルによってまちまちでした。

これをシステム化するには、従来の属人的なやり方を排し、システムによって業務を規定することになります。個々人の違うやり方を、どうやって一つの画面に集約し、業務を進めていけばいいか。そこで、業務そのものを見直す必要に直面しました。「どの機能によって、その後業務はどう変わるか」について一つ一つ洗い出しました。これが2017年のことになります。

——選挙報道に携わる部門が業務そのものを見直しながら、機能要件を洗い出していったわけですね。

兼上 はい。ほかに存在しないシステムなので、とにかく自分たちで考えながら進めるしかありませんでした。

——開発パートナーにIBMを選んだ経緯について教えてください。

岩本 パートナー選定では、複数の企業から提案をいただきました。IBMは以前、当社の顧客管理システムの開発に携わっていました。そのため、当社の事情や要件を理解したうえで、以前の顧客管理システムをベースにしながら、候補者の情報管理方法など具体的な提案内容だったため、当社側もイメージしやすかったのです。

——工夫した点、難しかった点はいかがでしょうか。また、その困難を乗り越えるために、IBMならではの提案やサポートはどのようなものがありましたか。

 

アジャイル手法を採用し、担当者が使って便利だと実感できるシステムを構築

岩本 今回のプロジェクトは前例がないことに加え、スケジュールが非常に厳しいという問題もありました。本格的にプロジェクトが始まったのは2018年の7月でしたが、当初から2019年4月の統一地方選挙で暫定運用を行い、同年7月の参議院議員通常選挙で本格稼働する予定だったので、開発スケジュールに余裕がなかったのです。IBMの提案は具体的なゴールが見えやすく、当社の事情も把握していたので、スムーズに進みました。

もう一つ良かった点は、アジャイル手法による開発の提案です。アジャイル開発では、要件を考えながらプロトタイプを作ってユーザーからフィードバックを受け、随時改善していきます。それが今回のような、正解が見えないプロジェクトでは非常に役立ちました。社内では懸念もありましたが、より良いものをつくり、使ってもらうには、アジャイル開発が最適であることを最終的に理解してもらいました。できた機能はすぐにリリースして担当者に使ってもらい、ブラッシュアップすることを繰り返す。それを週1回のペースで続けたのです。

兼上 まずは選挙取材の担当者に使ってもらい、意見を募りました。担当記者への研修では、マニュアルがないことに不満が出ました。アジャイル開発のため、画面が頻繁に変更するので、マニュアルが作成できなかったのです。そういう不満も含め、「どういう機能が必要か」「何が足りないのか」について徹底的に意見を募りました。

こうして得たフィードバックを、とにかくIBMに伝えました。IBMにはアジャイル開発の豊富な経験があるので、募った意見を「上手くまとめて、実現してもらえる」という信頼を持てましたね。だからこそ、制限なく、現場からいろんな意見を受けることができたと思います。

——機能面での工夫はいかがですか。

兼上 まず、UIや操作性にはこだわりました。シンプルでわかりやすくスタイリッシュなデザインにするため何回も作り変えた画面もあります。他にも担当者がなじみやすい文言、直観的な画面遷移の動線など、細かい部分までこだわりました。

何度も繰り返す面倒な単調作業を削減することと、個々人がこれまでやってきたやり方をできるだけ踏襲してシステム上で統一することに注力し、頻繁に使う機能部分を先行して開発しました。

また、記者が経歴などを確認取材した際に点検メモもESシステムに集約することで、記事作成の際に校閲者がメモを確認し、進捗に応じた準備ができるようになりました。そのほか、顔写真の準備や過去の立候補歴、参照した過去記事などもESシステムを通じてリアルタイムに共有することを可能にし、担当者が使って便利であると実感できる価値を創りだしました。

点検メモの入力画面(PC版・抜粋)

 

1人で150人分の調査表を効率的に集約、将来はAIを使った選挙報道も構想

——さきほど、もともとの課題で「人員減やデジタルの進展におけるメディア業界の変化が起こる中、その構造変化に対してイノベーションを実現するDXの重要度が増してきた」というお話がありました。そうした課題を踏まえ、今回のESシステムでどのような成果が得られたのかを教えてください。

兼上 ESシステムは3段階での導入を進めています。第1段階は、4月に行われた統一地方選挙で、事実上の検証テストに近いものがありました。ただ、事前に候補者のメールアドレスを収集したり、デジタルツールを使い慣れない候補者には紙の調査表を配布したりと、負荷がかかった点もありました。

第2段階で本格稼働を開始した7月の参議院議員通常選挙では、調査表の配布・回収が格段に効率化でき、比例区では1人の記者で150人以上の候補者への調査表配布・回収が出来たなどの効果がありました。その分、取材や確認作業に注力できました。

また、参院選後にあった知事選ではある候補者の陣営の方から「調査表記入が格段に楽になった、このシステムを他新聞社にも展開してほしい」というコメントをいただきました。現在は第3段階として、市区町村の首長や議員選挙にもESシステムを導入しており、データを蓄積して今後の報道にも役立てていく予定です。


候補者の入力画面(PC版・抜粋)

 

今後は、PDF化してサーバに保存しているかつての紙の調査表も参照できるように機能改善を継続します。また、各総局で集めた候補者情報は全社で共有できる資産なので、これからの取材活動にもより活用できると思います。

——まさにDXの一歩というわけですね。

岩本 そうですね。具体的な姿も見えないまま、短期間でシステム開発を実現してきました。IBMの開発実績や、開発者の協力に加えて、今回のプロジェクトでも大きな知見や開発ノウハウを得られたと考えています。

兼上 今回のプロジェクトに当たり、IBMには選挙のさまざまな仕組みについて十分理解してもらいました。それゆえに大きなトラブルもなく、開発が進んだと思います。また、こちらの要望に対して積極的に検討・対応してもらったことも良かったです。

——今後の展望についてお願いします。

兼上 実際のところ、選挙報道におけるDXは始まったばかりで、人手で対応している部分がまだまだあります。たとえば開票速報は、記者が開票所に行って、FAXや携帯の写真などを使って結果を集計し、速報でお伝えしています。まだ構想ですが、将来的にはAIを活用して、投票率や開票状況を見ながら当確判断を出すなど、よりスピーディーで効率的なやり方も実現できるかもしれません。選挙報道には今後デジタル活用が一層重要になると考えています。

岩本 今回、選挙調査表のデジタル化というこれまで世の中になかったイノベーションの実現において、IBMのアジャイル開発がぴったりマッチしました。アジャイル開発が唯一無二の正解というわけではありませんが、まだ見ぬイノベーション推進のためにはやはりアジャイル開発は有効です。また、アジャイルとの親和性、リリース後の改修、今後の利活用の拡張性の観点で、クラウド上での開発が必須でした。その経験が豊富なIBMとは、これからも良いリレーションシップでDXに取り組んでいきたいと考えています。