日本科学未来館の新館長選任に向けたご挨拶

日本科学未来館は「国民一人一人が、人間社会と科学技術の在り方を探り、文化の形成に果たす科学技術の役割と未来を示唆し合い、語り合い、理解し合う場」、との設立当初からの理念に基づき活動しており、東日本大震災など、いくつもの困難な局面もあった中、着実に発展を遂げ、今や世界的にも名前を知られる存在となっています。未来館は来年度(2021年度)から、次の10年間の長期ビジョンに向けた計画期間に入ります。来年4月から館長として、その10年間のかじ取りを任される立場となりました。私が館長として、就任後取り組みたいと考えていることが、2つあります。

第一に、「誰一人取り残さない」社会の実現に、科学技術を通して貢献することです。
2023年はSDGs達成の目標年です。SDGsの重要な目標は、「誰一人取り残さない、ダイバーシティー(多様性)を大切にするインクルーシブな社会の実現」です。私自身、女性でかつ視覚に障がいを持つというダイバーシティーを自分の強みに変え、これまでアクセシビリティの研究開発に取り組んできました。これにより、微力ながらこうした価値観を日本だけでなく、世界の方々にご理解いただくきっかけ作りに寄与できたのでは、と感じています。未来館の館長として、これまでの研究をさらに発展させ、館内において新たに研究室を設置し研究を展開することで、女性や障がいを持つ方々、そしてあらゆる年齢層の方々にとって来館しやすい環境づくりに尽力していきます。

第二に、Society5.0が進展する中で、未来館自身をその実験場とすることです。
2030年に向け、AIの技術が交通や住宅などの身近なものと融合し、社会のデジタル化はますます進化するでしょう。これまで、世界のテクノロジーをリードするIT企業で最前線の研究活動に従事しており、特にこの6年間は多国籍なメンバーと共に海外を拠点として研究を推進してきました。こうした経験をベースに、未来館が、インクルーシブな未来社会をいち早く体験し、社会に実装する道筋を皆さまと共に構想する場となれるよう、展示や情報発信などのさまざまな活動に、全力で取り組んでいきたいと思います。

館長就任までの1年間において、2030年までの長期ビジョンを描いていく中で、未来館の進むべき道を示していきます。新しい未来館にぜひご期待ください。

※JST(国立研究開発法人科学技術振興機構)プレスリリースはこちら

※展示「未来の考古学」は、2022年12月16日をもって、展示期間が終了しています。

額縁に収められているのは、500年以上美しい状態で保たれる写真「プラチナプリント」。そして、「プラチナプリント」で印画されているのは、「タイプボール」と呼ばれるものです。

「タイプボール」の表面には、実は、文字が並んでいます。

文字が並んでいるのであれば、文書作成に使われていたものであろう、と想像できた方もいらっしゃるのではないでしょうか?

この「タイプボール」は、「タイプライター」と呼ばれる機械で使われているものです。

「ワープロ」こと「ワードプロセッサー」と呼ばれる機械を目にしたことがない世代が多いであろう2022年において、「タイプライター」と聞いても何のことかわからない方が多数であろうとは思いますが。

 

「タイプライター」とは…を述べる前に、冒頭の写真にあるプラチナプリントが、どのような展示の場に設置されているかを紹介します。

日没後、色彩がモノトーンになる空間。

展示物の上方に映し出される、3Dファントムを用いた空間映像。

この展示は、メディアアーティスト 落合陽一氏の監修によるもので、「未来の考古学」と命名されています。(本展示は、日本IBM本社事業所内にあります)

そして、本記事の冒頭で紹介したプラチナプリントは、展示物の傍らに設置されています。

本展示が「未来の考古学」と命名された経緯と主旨について、本展示を紹介するWebページに記載されている以上のことを知る立場に私はありません。

個人的な解釈は、「未来の考古学」とは、「未来の時点における『現在』を形作る技術的・学術的な礎となるもの」です。

現在の私たちは、「未来の考古学」たりうるかもしれないものを、たぶん、「特別なもの」としてではなく「当たり前のもの」として扱っていると思います。あるいは、2020年代の「礎」となった数十年前のものを、「大きな意味を持つ」とは思わないまま、「過去のもの」として扱っていると思います。

でも、本当は、現在においても存在感を放つ機械たちには、それぞれの機械が誕生した背景に、その時点の最先端の着想があります。

そう考えると、現在における「当たり前のもの」の原点が誕生した際の着想に思いを馳せることは、意義深いと言えるのではないでしょうか。

そして、それぞれの機械が実現したテクノロジーの進化を再認識することは、もしかしたら、新たなテクノロジーを生み出す発想の起点になるのかもしれません。

さて、「タイプライター」とは…に戻りましょう。

タイプライターとは、「キーボードの文字を押すと、文字が刻まれたタイプバーと呼ばれる金属のアームが動き、インクをしみこませた帯の上からアームに刻まれた文字を紙に打ち付けて、紙に文字を印字する機械」です。

そして、IBMが1961年7月31日に発表したタイプライター「IBM Selectric Typewriter」は、上述した「タイプバー」ではなく、ゴルフボール型の「タイプボール」を印字の仕組みとして採用したことが革新的でした。

初代機のIBM Selectric Typewriterは、後継機と区別する観点で「IBM Selectric I 」とも呼ばれています。

ちなみに、IBM Selectric I は映画やドラマに登場することがあるので、赤い筐体の写真をご覧になって、「見たことがある」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんね。

そして、初代機から赤、青、緑、薄茶など複数色の筐体で提供されているIBM Selectric Typewriterではありますが、「未来の考古学」の展示では、丸みを帯びた筐体が特徴的な第1世代のIBM Selectric Iではなく、第2世代のIBM Selectric IIが採用されています。

「未来の考古学」は、展示空間の色彩がモノトーンとなるため、IBM Innovation Studio所蔵のタイプライターの中では、グレー筐体のIBM Selectric IIが展示に適していると判断されたのでしょう。

なお、IBM Selecric Typewriterそのものは、IBM Selectric III(1980年代に登場)まで発表されました。

ところで、ゴルフボール型の「タイプボール」を印字の仕組みとして採用したIBMのタイプライター「IBM Selectric Typewriter」は、何が革新的だったのでしょうか。

実は、「タイプバー」と異なり、「タイプボール」は交換が可能です。

つまり、文書を印字している途中で「タイプボール」を交換することで、文章の途中から異なる書体や言語を印字できるのです。

現在、私達は、文書作成にワープロソフトを用いています。

ワープロソフトは、パソコンでも、スマートフォンでも、それこそ、Webブラウザー・アプリケーションとしても利用可能であり、文字フォントは必要なときに必要な場所で変更できて当然、と私達は思っています。

しかし、上述したように、「タイプボール」を用いるIBM Selectric Typewriterが登場するまでは、文章の途中で文字フォントを変えることは不可能だったのです。

もしかしたら、「未来の考古学」の展示で「タイプボール」を目にすることで、新たなテクノロジーを生み出す発想の起点とする人が現れるかもしれませんね。

なぜなら、「未来の考古学」の最適な展示の時間帯は日没後です。明かりは3Dファントムを用いた空間映像のみで、展示エリアは消灯されています。つまり、思考に没入するには最適な空間だからです。
日本IBMアカウントのTwitterにおける動画投稿も参照ください。

浅川 智恵子(あさかわ ちえこ)略歴

 

  • IBMフェロー、IBM T. J. ワトソン研究所、IBMコーポレーション(IBM Fellow, IBM T.J. Watson Research Center, IBM Corporation)

  • IBM特別功労教授、カーネギーメロン大学(IBM Distinguished Service Professor, Carnegie Mellon University)

 

小学校時代にプールでの怪我がもとで徐々に視力が衰え始め、中学2年生の時に失明。大学卒業後日本ライトハウスでプログラミングを学ぶ。

1985年:日本アイ・ビー・エム株式会社(日本IBM)東京基礎研究所に入社

1992年:日本語デジタル点字システムを開発

1997年:史上初の実用的な音声WEBブラウザ、IBMホームページリーダーを開発

1999年:厚生労働大臣賞

2004年:東京大学 大学院工学系研究科 先端学際工学専攻 博士課程修了、博士(工学)取得

2009年:日本IBMでは史上3人目のIBMフェローに就任


2011年:
文部科学大臣表彰

2012年:ICT超高齢社会構想会議 構成員(総務省)


2013年:
紫綬褒章

2014年:米国カーネギーメロン大学 IBM 特別功労教授に就任

2016年:2020ワールド・ロボット・サミット実行委員会諮問会議(経済産業省)

2017年:視覚障がい者の屋内ナビゲーション技術Navcogを発表

2017年:米国National Academy of Engineeringメンバー

2018年:米国IBM T.J.ワトソン研究所に移籍

2019年:全米発明家殿堂入り

2020年:米国盲人協会 ヘレンケラー・アチーブメント・アウォード

2020年:視覚障がい者のためのナビゲーションロボット、AIスーツケースを発表

参考リンク

寄稿者

浅川智恵子さん

IBMフェロー 米国T.J.ワトソン研究所所属 日本科学未来館館長を兼任