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IBM 100年の軌跡
 

IBM PC

パーソナル・コンピューティングの発展

どんな製品も、アイデアも、業績も、私たちの最も重要な資産である何十万人ものIBMメンバーの蓄積された思考資産なくしては実現しません。専門知識、技術的手腕、リスクを引き受ける大胆さ、そしてIBM社員のあらゆる面での献身が、IBMのこれまでの歩みのなかで、変革のための数々のイノベーションを達成させてきました。この「進歩の象徴」に貢献したチーム・メンバーをご紹介します。

  • ビル・ ロウ 

    William Lowe

    ビル・ロウは、ペンシルバニア州のラファイエット・カレッジで物理学の学士号を取得し、1962年に製品テスト・エンジニアとしてIBMに入社しました。1975年には、ゼネラル・システム事業部の開発/製造業務部門のディレクターに任命され、1978年の終わりには、同部門のフロリダ州ボカラトンにある施設のラボ・ディレクターに就任しました。この役職中に、彼はIBM Corporate Management Committee(CMC)に連絡をとり、中小企業と一般消費者向けに設計されたマイクロコンピューターを買収してIBM名で売り出すか、IBM社内で独自に開発してはどうかと提案します。この提案により1カ月で試作品を作るように依頼されたロウは、特別チームを結成して企画書をまとめ、試作品を開発します。CMCはこれを承認し、試作品のマイクロコンピューターを1年で製品化するようにチームに指示します。その後まもなく、ロウはインフォメーション・システム事業部担当のバイス・プレジデントに昇進し、IBMのミネソタ州ロチェスターにある施設のジェネラル・マネージャーをしていたドン・エストリッジがマイクロコンピューター・プロジェクトを引き継ぎます。

  • ドン・ エストリッジ 

    Phillip Estridge
    ドン・エストリッジは「IBM PCの父」と呼ばれています。

    ドン・エストリッジは、フロリダ大学を卒業し、電気工学の学士号を取得しました。1959年の6月にジュニア・エンジニアとしてIBMに入社後、連邦システム事業部とゼネラル・システム事業部のさまざまなポジションで活躍しました。1981年には、エントリー・システム・ビジネス部門のディレクターに任命されてIBM PC開発の責務を引き継ぎ、エンジニア・チームのリーダーとして、CMCから指示された1年という期限内にPCを製品化する仕事に取り組みます。この期限を守るために、彼は一般的なハードウェア部品、オペレーティング・システム、アプリケーションなど、さまざまなコンポーネントを外部のベンダーから調達することを決めました。また、IBM PCにオープン・アーキテクチャーを採用し、他のメーカーが周辺コンポーネントや互換ソフトウェアを生産して販売できるようにすることにしました。その後、Entry Level Systems部門のジェネラル・マネージャーになり、さらに1984年にはIBMバイス・プレジデントに就任します。1985年、彼は航空機墜落事故で亡くなりました。その時点で、販売されたIBMパーソナル・コンピューター数は100万台を超えていました。1999年、彼はCIO誌で「ビジネスを生み出した」人物の1人に選ばれています。

  • ビル・ シドネス 

    ビル・シドネスは、フロリダ・アトランティック大学で理学士の学位を取得するともに、コーネル大学のIBMエグゼクティブ開発プログラムを修了しました。IBM入社後、IBM5120デスクトップ・コンピューターのマネージャーを務め、この開発を期限内および予算内に完了したことから、ビル・ロウによって、マイクロコンピューターの試作品の開発作業に携わる12人のハードウェア・エンジニア・チームのリーダーに任命されました。当時、IBMにはすぐにリリースできるマイクロプロセッサーがなかったため、シドネスはIntel 8088プロセッサーを使うことに決めました。また、オペレーティング・システムとコンパイラーにはマイクロソフト社製のものを選択しました。彼はロウとともにCMCの審査会に出席し、そこで、コストを抑えるためには他のオープン・スタンダードや処理標準を採用する必要があることを強調しました。その後、彼はIBM PC jrの製品マネージャーを務め、1983年にIBMを退職しました。

  • ジャック・ サムズ 

    ジャック・サムズは、エンジニアとして、試作品に使用するソフトウェアの開発に携わりました。IBM システム/23の開発作業でBASICコンパイラーの構築に1年を費やし、製品のスケジュールに遅れを出した経験から、新しいマイクロコンピューターでは同じ苦労を繰り返すのを避けるため、ほとんどのソフトウェアのライセンスを他社から交付することに決めました。彼はビル・ゲーツと会い、IBM PC用のBASICコンパイラーの作成作業をマイクロソフト社に任せることができるかどうか検討します。そして、この会見から、最終的な製品でマイクロソフト社のソフトウェアを使用すべきだと、ビル・ロウに提言します。また、オペレーティング・システムに関するDigital Research Intergalactic社との取引がまとまらなかったことから、彼のチームはオペレーティング・システムについてもマイクロソフト社を選択します。その結果、開発されたオペレーティング・システムは、IBMからPC-DOSとしてリリースされ、マイクロソフト社からはMS-DOSとしてリリースされました。その後の展開については、周知のとおりです。

  • H. L. スパークス 

    H.L.スパークスは、マーケティング、広報、セールス/サービス分野を担当しました。彼の活躍により、PCの市場投入は、一部の業界観測筋から「新製品の市場投入において、史上最も大きな成功を収めた」と評価されました。彼はプロジェクトの早期の段階でSears Roebuck社とComputerLand社の管理職にプロジェクトへの支援を依頼し、市場に関する重要な情報を入手するためにこれらの小売企業の力を借りました。2社はIBM PCの主要販路となりました。彼はその後IBM認定の販売業者のネットワークを確立しましたが、セールス/サービス部門担当のバイス・プレジデントとしてCompaqに移籍しました。

  • デイブ・ ブラッドリー 

    彼は、コンピューターをリブートするときに使用された「Control-Alt-Delete」キーの組み合わせの考案者としての功績を一部の人々に評価されています。

    デイブ・ブラッドリーは、1975年にパデュー大学で博士号を取得後IBMに入社してIBM Series/1システムを担当し、1978年にはIBM システム/23 データマスターの入出力システムを開発しました。彼はマイクロコンピューター・プロジェクトに割り当てられた12人のエンジニアの1人としてPCのROMBIOSを開発したほか、コンピューターをリブートさせるControl-Alt-Deleteキーの組み合わせの考案者としての功績を一部の人々に評価されています。このキー・シーケンスは当初開発者向けに考案されたものですが、非常に便利なため、開発者たちが一般にコードを公開するようになりました。彼はIBM PC XTのBIOSと診断の管理や、Personal System2 Model 30の開発にも携わります。その後も、IBMでさまざまな役割を果たし、2004年に退職しました。彼は米国特許権を7つ保有しています。

  • ビル・ エグルストン 

    ビル・エグルストンは、ミシガン大学で文学士号と理学修士号を取得しました。1953年、営業担当員としてIBMに入社し、マーケティングと製品開発部でいくつかのポジションに就いた後、1966年にシステム開発事業部に配属されました。1979年にはゼネラル・プロダクツ事業部のプレジデントに就任し、初期のIBM PCプロジェクトに携わりました。彼はビル・ロウ、ビル・シドネスとともにCMC審査会に出席し、最初の試作品を提示します。1982年9月には、IBMヨーロッパの技術/機能サービス・ジェネラル・ディレクター(directeur general des services techniques et fonctionnels)とIBM World Trade E/ME/A (Europe/MiddleEast/AfricaCorporation)の取締役の1人に指名され、その3年後には品質管理部門のバイス・プレジデントに就任しました。