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IBM 100年の軌跡
 

International Business Machinesの誕生

 

1914年から1924年までの10年間に、トーマス・ワトソン Sr.は、1911年に3社が合併してできたComputing-Tabulating-Recording(C-T-R)社を、400万ドルの複合会社から1,100万ドルの会社へと成長させました。損益計算書上の利益は2桁の伸びを示すこともありました。ワトソンは、ロウアー・マンハッタンのブロード・ストリートにあるオフィスの社長室で新しい社名を検討し始めました。彼は、会社の抱く大志と明るい未来を明確に示すような、不朽のブランドを求めていたのです。

バランス・シートにはまだ多くの負債がありましたが、ワトソンは製品と工場への投資を怠りませんでした。C-T-R社の営業担当員は、新しいボスに合わせて、白いセルロイド製カラーのついたシャツというきちんとした服装をし、教育の行き届いた営業担当員へと変身しました。肉のスライサーやコーヒー・グラインダー、秤の販売もしていましたが、もっとハイテクの計算機のセールスも行い、今やショールームの床にはペルシャじゅうたんが敷かれ、もっとすごいことが起こるという期待感が満ちていました。ワトソンにとって、この10年間は経営面での苦労の多かった時期でもありました。1911年にC-T-R社を創立するために集められた3社のマネージャーは合併に抵抗しました。ワトソンは、堅実で、かつ、ぶれの無いタイプの経営スタイル、つまり昔ながらの頑固な学校長のようなタイプと疲れを知らないチア・リーダーのタイプを足して2で割ったようなスタイルを選択しました。

しかし、必要であれば頭ごなしにどなることもいとわず、また、そうしたこともしばしばありました。1917年に行われた13名の幹部とのミーティングで、彼は次のように話したと伝えられています。「私は君たちを助けようと、この会社を本当の組織、大きな組織にしようとがんばっているんだ。それなのに、まだ、こそこそしたり、他人を批判し、あら探しをする傾向が収まらないようだ。諸君、いいかげんにするんだ。今ここではっきり言っておく。社内の皆と協力するという決心が今すぐにできないようなら、直ちに辞表を出してくれたまえ。」

C-T-R社は第一次世界大戦後のブームに乗って急成長し、1920年には、めざましい年間業績が上がったのを受けて、ワトソンはシニア・マネージャーに対し、無謀にも会社の事業規模を1921年に2倍に拡大するよう命じました。しかしその年、米国経済は深刻な景気後退に見舞われ、C-T-R社の事業は急激に落ち込みました。生産と雇用を拡大していたため、巨額の費用が発生しました。ワトソンは会社を存続させるために従業員の解雇と賃金カットを余儀なくされました。

さらに、この間、彼は、C-T-R社の計算機が競合製品に負けているのを見て不安を募らせていました。タビュレーティング事業が会社の将来を握る鍵と考えていたため、これには特に頭を痛めていました。秤やコーヒー・グラインダーではC-T-R社を世界最先端の会社にできそうにはありません。ワトソンは、大企業が鉄道の運行、百貨店の会計処理、工場の製品と在庫の記録に計算機を使用し始めていることに気づき、情報の収集、分類、伝達が、今後大きなビジネスになるとの結論に達しました。

ワトソンはやがて、会社をチームで協力する体制にし、開発を促進するために1918年に試験部門とエンジニアリング部門の統合を命じました。また、彼は、研究所を開設し、ジェイムズ・ブライス(James Bryce)をはじめとするトップ・クラスのエンジニアたちを採用して、最高の計算機、ソート機、キーパンチ機の開発、製造を始めました。そして1924年までに、会社をより持続的な成長路線に乗せたのです。

同じ年、C-T-R社の取締役会会長が引退し、ワトソンは誰もが認めるC-T-R社のリーダーとなりました。

当時、第2次産業革命が米国で本格化していました。大量生産、割賦購入、目もくらむような発明の数々—テレビ、ブラウン管、冷凍食品、電気ミシン、食器洗い機、掃除機、アイロン、ストーブ、冷蔵庫、トースター—これらすべてが「狂乱の20年代」の経済を刺激し、起業家の想像力をかき立てました。ゼネラル・モーターズ社は自動車の生産高で偉大なるフォード・モーター社に追いつきました。USスチール社は世界有数の企業でした。ゼネラル・エレクトリック社はAT&T社と共同でRCA社を設立し、これが後にNBC社となりました。

ワトソンはいずれ会社のコンピューティング・スケール部門と、おそらくはInternational Recording社も売却することになると考えていました。それは、C-T-R社のCとRが無くなる、ということです。さらにC-T-R社が3つの部門を表していることも気にいりませんでした。ゼネラル・モーターズ社やUSスチール社のように、自らの考えの雄大さとビジョンを表現する社名がほしいと考えました。

そのころには、すでに、ヨーロッパにいくつかのオフィスを開設し、カナダと中南米に子会社を設立していました。その7年前の1917年には、カナダにあるC-T-R社の3つの子会社をInternational Business Machinesという新しい社名の下で統合していました。そこで、成長軌道にある会社にはこの名前がふさわしいと思いつきました。1924年2月14日、ニューヨーク証券取引所にInternational Business Machinesの上場を申請し、イニシャルのIBMを使用しました。

C-T-R社の株主で、コネティカット州ハートフォードにある銀行のバイス・プレジデントが、ワトソンに次のような手紙を書きました。「Computing-Tabulating-Recording Companyという社名は、あなたがつけたInternational Business Machines Companyという社名よりも、ずっと響きが良く、印象にも残る、中身のある社名だと感じられるのですが。」

10歳のトーマス・ワトソン Jr.は、その日父親が仕事を終えて帰宅したときのことを覚えています。「(父は)母(ジャネット・キトリッジ・ワトソン)を抱きしめ、Computing-Tabulating-Recording社はこれからInternational Business Machinesという偉大な名前になるのだ、と誇らしげに告げました。私はリビングの入り口に立って、『あの小さな会社が?』と思いました。」

やがて、ワトソン Jr.がIBMを世界中の家庭やオフィスで最も知られたブランド名の一つにすることになります。