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IBM 100年の軌跡
 

IBMワールド・トレード社の設立

IBM100 The Creation of the World Trade Corporation iconic mark
 

1917年6月のとある吉日、ブラジル・リオデジャネイロの港で港湾作業員が、のちにIBMと呼ばれることになる会社Computing-Tabulating-Recording 社から出荷されたホレリス・マシンを陸揚げしました。経済統計の追跡用にブラジル政府で使用されることになっていたこのマシンは、この国にとって機械的なデータ処理を行う最初のマシンでした。この販売契約の調整役を務めたのはブラジルの起業家バレンティム・フェルナンデス・ボウサスです。彼はニューヨークまで赴き、自分を代理人としてブラジルで製品の販売を始めてみないかとトーマス・J・ワトソンSr.を説得したのでした。その後、ボウサスはIBMの最初のブラジル支社とその子会社の経営にあたります。彼の功績は数多くありますが、その一つは、革命による政権崩壊後の1930年、新政府の指導者たちにIBMのマシンを使い続けるよう説得したことです。マシンの価値が証明されるまで、IBMはマシンを無料で提供する-彼はそう提案しました。この口説き文句は功を奏しました。のちに、彼は新政府の経済諮問になります。

IBMのブラジル進出の初期の時代の活動は、世界各国でのIBMの事業展開のアプローチを実証しています。野心的であれ、現地に早く行け、マネージャーの現地採用、その国の経済確立の支援、経営が厳しくなってもあきらめるな-ワトソンSr. は、会長に就任していた何十年もの間、これらの信条に従ってIBMの世界各国への事業の拡大を進めました。そして、1949年に、これらの信条が実を結みます。彼はIBMの子会社としてIBMワールド・トレード社を設立し、ニューヨーク市の国連本部の近くに本社を構えました。海外事業部にある程度の独立性を与えることによって、スタッフを経営に集中させ、業務に積極的に取り組ませることができる、と彼は考えたのです。
ワトソンはIBMの事業がいずれは世界規模に成長するだろうことを、最初から信じていました。1914年に経営責任者として入社した彼は、米国、カナダ、ドイツ、イギリスにおける従来の事業経営を越えて、世界各国で積極的に事業を展開しました。まずフランスに進出し、その後、ブラジル、南アフリカ、日本、中国へと拡大していきました。1940年代の終わりまでにIBMは78カ国でマシンを販売していましたが、経営は国ごとに独立していました。彼は、国際的な拡大に重点的に取り組む組織を設立すれば、さらに成果が上がるはずだと考えました。「米国の人口は全世界の人口の6%。残りの94%の人々は他国に住んでいる。いずれ、IBMワールド・トレード社は米国のIBM本社より大きくなるだろう」彼はそう予言しました。当時、彼の主張は急進的な感がありました。世界の大部分はまだ戦後の再建に取り組んでいたからです。しかし、彼の予言は1975年に実現します。この年、海外の売上高が米国国内の売上高を上回ったのです。

ワトソンは、大学を卒業してまだ2、3年しか経っていない自分の次男であるアーサー・K・ワトソンをIBMワールド・トレード社の管理職に就かせ、その後すぐに経営者に昇進させます。若く、経験が浅いにもかかわらず、彼は経営者として能力を発揮し、製造とセールス面で投資を行います。これらの投資は1950年代から60年代にヨーロッパ経済が再び活性化するにつれて利益を生みます。彼はその後、1970年に駐仏米国大使となるために退職しますが、1949年の時点で年間5,000万ドルに満たなかった海外の売上高が、彼が退職した1970年には250億ドルを上回りまでになり、108カ国で事業が展開されていました。

戦後、IBMは初めて登場した真の多国籍企業の1つとして頭角を現し、さまざまな国にミニ・サイズのIBMを設置しました。通常、ミニIBMは、それぞれ独自の製造機能と本社機能を備えていました。IBMはまた、アメリア人以外の社員を重要な管理職に抜擢するといった人事も真っ先に始めました。

1933年に母国のアルゼンチンでIBMに入社し、その後複数の大陸で活躍した元IBM経営幹部のルイス・ラマソネは、当時を振り返り、IBMは海外の子会社の扱い方が他の国際企業よりもはるかに優れ、倫理的行動に対する高度な基準などのIBMの価値観をあらゆる国で浸透させたと語っています。「人間関係の面が他社とは違っていました。ワトソンが米国で実践したポリシーをそのまま海外のすべての支社に根付かせようとしていたのです」
IBMワールド・トレード社の収益のほとんどは先進経済国での売上でしたが、1960年代の独立後のアフリカでも活発な経済活動が行われました。当時のアフリカは、マネージャーの資質が試されるような状況にありました。IBMワールド・トレード社の会長を含め、多数の国際的なポストに就いたフランス人ジャック・G・メゾンルージュは、1970年代後半に妻とともに南アフリカを旅したときのことを振り返って、次のように語っています。当時、現地を訪れたIBM幹部は、現地の社員を晩餐会に招待することが習慣になっていました。IBMのヨハネスブルグ・プラントの黒人社員は、人種隔離政策によって、近隣のソウェト地区に住んでおり、この地区一帯に夜間外出禁止令が敷かれていました。メゾンルージュは、当局にかけあって、黒人社員を夜間に外出させたばかりか、ヨハネスブルグの白人専用ホテルでの晩餐会に出席させました。その晩、80名ほどの黒人社員と配偶者が彼と夕食をともにしました。「素晴らしいできごとでした」と彼は回想します。「私たちは革新的なことをしたのです」

IBMが世界規模に統合された企業という新しいビジネス・モデルに進化していくなかで、IBMワールド・トレード社の痕跡はしだいに消えていき、2011年現在、その痕跡はほとんど残されていません。しかし、グローバル市民の精神は維持されています。2011年現在、IBMはアフリカ、ラテン・アメリカ、アジア、東ヨーロッパで事業を活発に拡大しており、世界の各地で研究所の設立を続けています。たとえば、2010年にはブラジルに新しい研究所を設立しました。現地で採用されたIBMの科学者たちは、天然資源の探査と大規模なイベントの管理に取り組んでいます。ブラジルでの2014年のワールド・カップと2016年のオリンピックの開催に備えて、IBMは、リオデジャネイロや、急速に発展しているブラジル国内の他の大都市における、民間防衛、輸送、気象学などの都市システムからのリアルタイムのデータとプロセスの統合を支援するスマーター・シティー・コマンド・センターを立ち上げようとしており、空前の成長期にあるブラジルの持続可能なオペレーション・インフラの構築に貢献しています。1917年に、リオデジャネイロの港に最初のパンチ・カード式統計機が陸揚げされたときと同じように、IBMはブラジルの、そして全世界のビジネスと社会の未来に向けた躍進を支援しています。

このアイコンのストーリーへの貢献者として選ばれたメンバーは次のとおりです。

  • トーマス・J・ワトソンSr. IBM会長
  • アーサー・K・ワトソン IBMワールド・トレード社 会長
  • バレンティム・フェルナンデス・ボウサス ブラジルにおける最初のIBM営業担当者
  • ジャック・メゾンルージュ IBMワールド・トレード社 会長