サイコロジー

ジャーナリズムとアクティビズム

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まず最初に言っておくべきことがあります。

おれはジャーナリズムやジャーナリストについて、なんらかの教育を受けた経験もなければアカデミックな知識もないということ。そしてアクティビズムとアクティビストにかんしてもまったく同じだということです。

これから書くことは、そんなおれが感じているジャーナリズムとアクティビストであることについてです。

 

 

ジャーナリズムとは

検討すべき問題や広く知られた方がよいと思われる事柄を、言論により報道・解説・批評する活動のこと。

そこに求められるのは、自分にとって都合の悪いものであろうと真実に重きを置くこと。自分の意見と異なる意見に対するオープンなスタンス。そして自分の自由と同じくらい他の人たちの自由を大切にすること。

 

アクティビズムとは

周囲や組織・環境に、自身の主張や考えに基づいた変化をもたらすために実施する活動のこと。

そこで重視されるのは「変化をもたらすこと」であり、場合によって手段はかなり幅広く取られる。こうした活動を実践する者がアクティビスト。

 

これがジャーナリズムとアクティビズムに対するおれの認識です(最初に書いたように、これが正しいのかどうかや、そもそも完全な定義があるのかなどは知りません)。

そして、おれは自分のことを「ジャーナリズムに憧れるアクティビスト」だと思っています。

また、「アクティビストはジャーナリストにはなれず、同時に両者になることはできない」と少し前まで思いこんでいました。なぜなら、アクティビストは、真実よりも自身の主張や思想に重きを置くから。その結果、主張に都合の悪い意見や批判を排除したり黙殺してしますから。

 

…でも、昨年の終わり頃、ふと「ああ、この<アクティビストは都合の悪い意見を排除しがち>というのは、おれ自身がそうしがちなだけであって、誰にでもあてはまる話ではないな」と気がつきました。

「自分がそうだからみんなもそうだ」と、勝手に強く思い込んでいただけ…。

 

 

自分が「勝手な思い込み」に囚われていたことに気づく数週間前、とあるワークショップで一緒のワーク・テーブルに着いたジャーナリズム/アクティビズムを真剣に学び実践している「NO YOUTH NO JAPAN」の立ち上げメンバー数人を前に、「おれはジャーナリズムとアクティビズムは両立しない、できないと思っている。なぜなら…」と話をしました。

アクティビストは、真実より主張に重きを置く。そして自分が欲しい未来を追求するがゆえに、異なる意見に対するオープンさがない。
そして人は、そんな風に「この人は不都合な真実を黙殺したり、論点をすり替えて議論の矛先を変えようとする人だ」と認識した相手が、別のテーマを前に「私はジャーナリストです」と言ったところで、真実とオープンさに重きを置いて伝えようとしていると信じることはできない。

 

これが私の主張でした。でも、その話をした翌日から、なんだかずっと違和感を感じていたんです。「パチ、お前が言ったあれは本当か?」と。何か、抜け落ちている気がして。

それから数週間、ずっと「ジャーナリズムとアクティビズム」について、あーでもないこーでもないと考え続けていました。

 

これまで何度か「パチ、君は1つの視点に執着し過ぎて、全体を見渡せていない」だとか「弱者を擁護して行動や発言をしているつもりだろうけど、その擁護が別のタイプの弱者を傷つけている」」とか、そういう注意やアドバイスを受けることがありました。

それはものすごく核心を突いたアドバイスで、おれにとっては認めたくない事実でもあり…。

だからそんなとき、「おれはエナジャイザーだよ。アジテーター(扇動者)でトリックスターで、アクティビストなんだ。ジャーナリストじゃないんだよ」なんて嘯いていました。

 

でも本当は、自分の主張と意見を強く(そして早く)押し出したいって気持ちが強過ぎて、議論をリセットすることを面倒臭がったり、ときに恐れて避けていたんです。でもそれって、他の人たちの意見や自由を乱暴に扱っているってことです。

自分がそういう行動を取ることがあるから、「アクティビストは、自分にとって不都合な真実を黙殺したり、論点をすり替えて議論の矛先を変えるような行動を取る」という、自分にとって都合の良いロジックを疑わず、深く考えずにきた理由なんだと気がつきました。

ジャーナリストに憧れているのに、そうなろうとする覚悟や決意を持てなかった自分を、無意識に自己弁護していたんです。

 

ワークショップからしばらくが過ぎ、「NO YOUTH NO JAPAN」代表の能條さんとランチに行きました。

おれは、自分の偏った見方でジャーナリズムとアクティビズムを狭く捉えてしまっていたこと、それをベースに議論を進めてしまったことを詫びました。

そして今は、自身がたとえどれだけ強い主張を持っていたとしても、それとは異なる、あるいは真っ向から反する「都合の悪いもの」を見ない振りせず、自身が盲目的になることを許さず、誰かの自由を乱暴に扱わないことを強く心がければ、アクティビストがジャーナリズムを実践することも可能だと考えていることを伝えました。

 

能條さんはにこやかにおれの謝罪を受けとめてくれました。よかった!

そしてその後は、これからのぼくらに必要なのは信頼と透明性 — 政治と社会にもっとも必要なのは「信頼の回復」で、その鍵を握っているのは「透明性」で、その実現には「不透明性を良しとする人やしょうがないとする組織を排除すること」 — じゃないかって考えてるって話で盛り上がったんだけど…。

これはこれでけっこう長い話になりそうなんで、また別の機会に書きますね。

 

Happy Collaboration!

 

コラボレーション・エナジャイザー

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